第84回 Quality of Guilt

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Guilt・・・有罪。
罪がある、という言葉ですね。

果たしてその「罪」にランク付けや質のようなものが存在するのか、と考えることがあります。

例えば、客の信頼を裏切り、消費期限切れの食品を出し続ける企業経営者。
老人を騙して偽リフォームで売りつける輩や、「オレオレ詐欺」の面々。
子供を殺し、公判では自ら極刑を申し出る母親。
公人としてのモラルが麻痺し、晩年にさしかかる前に投獄されてしまった夫婦。
そして正義の為、と称して結果的には大量殺戮へと導く指導者。

あなたはその「罪」に差があると思う人ですか?それとも同じ「罪」であって質は
変わらないものだと思いますか?

私は無罪なのか?という審判を人間は死後閻魔様の前ではっきりさせなければならないと
いう話は有名ですよね。

だから何をもって罪というか、その意識によっても大きく異なるものだと思うのです。
古い食べ物を出す企業経営者にとって、彼の罪に比べればどこかの大統領のほうが、という
感覚があるのでしょうか。
それとも彼はそれを罪と思っていないからこそできたのでしょうか。

そしてそれは大量殺戮も「正義の為であり、それこそが正義である」と思っているのであれば
罪ではないのでしょうか。

聖書でもいわれているように「人間は原罪がある」とするならば、自分が聖人君主では
ないことを前提にしながらも、その「罪の質」を見極める目を持つ人生を送りたいと思います。

追伸:先日行ったバンド2回目のライブに来ていただけた方、ありがとうございます。
本当にまだまだですが、終わった直後の高揚感と映像を何回も見て落ち着きを
取り戻すにつれもっと納得したいという強い思いとのギャップが生まれてきます。
次のライブは来年ですが、それに向けて頑張ります。

2件のフィードバック

  1. わたしは小学生の頃から首尾一貫、性悪説を支持していて、
    それは生きていくにおいて善悪などという価値観を持ち出すこと自体、
    すでに悪そのものじゃないかと感じているからなんです。
    (人間の基準で考えると動物は悪まみれですからね)

    大人になってからは、それを前提に考えることで、
    性悪説が我が身の見張り番になってくれます。
    「悪だがやむをえまい」とか「善を気取っているのか」とか。

    そんなわけで、罪に関しても似たようなものを感じます。
    蚊を叩いても罪なのか、というと罪もなにもないわけですが、
    処罰されなくても法律に触れなくても些細なことでも
    やってはいけないことがある。

    だからやっぱり基準は「自分」ですね。
    「誰かに怒られるから」「人もそう言ってるから」ではなく、
    これはいけないことだから、と自分が思うかどうか。
    (もちろん社会生活での常識を踏まえてですが)

    法律と同様、自分の中にも六法全書があって、
    誰が怒るわけじゃなくてもそれは破ってはならない。
    自分の良心に耳を澄ますことが肝要ですね。
    それが「罪の質を見極める目」ということと受け取りました。

    子供や孫を叱る時、「笑われちゃうでしょ」とか
    「怒られるわよ」とか言ってる大人をよく見かけますが、
    それはちょっとどうかなと思うんです。
    「罪じゃないけど、やめておきましょう」と誤摩化してるみたい。
    自分が責任をとりたくないのか知りませんが、
    「それはいけないことだよ」と教えてあげるべきで。

    罪の意識なく罪を犯す人を製造してしまうから。
    ミッキーさんが書いている「正義のためと思ってやっている人」。
    そういう人が最も恐ろしい。

  2. コメントありがとうございます!
    思えば、健さんと私が信頼関係で結ばれているのも
    (勝手にそう思っている)その判断基準が似ている
    とお互いの話の中で認識しているからではないかな。

    でも、自分の良心を信じていくには本当に
    見極める力を常にもってないと大変だなと本当に
    思います。

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