【網の目状的な】
最近、若い人たちと話をしていて気になることがある。
それは、ボクの発言がほとんど反論されることがないということ。
何を話しても「そうなんですね」とか「なるほど」と言われてしまう。
物分りがよすぎる。
年寄りの言うことだからと、受け流されているのだろうか。
あるいは、ボクの話など実は全然聞いてないのではと思ってしまうこともある。
決して怒っているわけではない。
ただ、なんだか気持ちが悪いのだ。
本当のことを言うと、ボク自身何かがわかって話し始めることなど、ほとんどない。
話していくうちに、何かがわるのではないかと期待している。
文章を書くのも、やはり書くべき何かを最初からわかって書くことなどあまりない。
むしろ、書いていくうちにぼんやりとした事柄が、次第にみえてきて、書き終えた
とき、なるほど、こんなことが言いたかったんだと気づくことがしばしばある。
そもそも、「わかる」とは「分かる」と書く。
つまり、「分ける」ことで、ものごとを分解し分類し整理することである。
想像するに、先ほどの若い人たちは、こうした分類・整理の処理能力がとても高いの
ではないか。
このおっさんが言いたいことは、概ねこんなことだよな、といった具合に。
だから、「そうなんですね」とか「なるほど」と相づちを打たれる。
ネットやスマホでなんでも検索すれば、全てが紐付けられ、分かる時代である。
だから、ボクの話もどんな情報項目かと分類し、要約して、素早くまとめられてしまう
のではないか。
そうすると、ボクは話にブレーキがかかり、もはや話すことがなくなる。
たしかに、情報を集められるだけ集め、なんでも知っていることは、失敗の確率を下げ
ることになるであろう。
一方で、ボクの経験からすると、あれもこれもと情報を集めていくと、次第に想像力が
失せてくる。
そして、あれもある、これもあると分かっていても「これだ」「これしかない」と決断
することができなくなる。
情報を集めることはもちろん、大切である。
しかし、それ以上に自分で悩み、考え、答えを出す力が、これからもっと必要になるので
はないか。
知っておくべきは、過剰なまでの情報の豊かさは、決断の貧しさを生むのだということを。