1977年の夏から一年間、下関の街とそこに生きる17才の女子高校生、郁子を描いた映画『チルソクの夏』を観た。
姉妹都市、韓国・釜山との親善事業として、年に一度開催される「関釜陸上競技大会」で、郁子は同じ高飛び競技に出場していた釜山の男子高校生、安(あん)と出会う。
そして、ふたりは淡い恋に落ちる。
翌年の7月7日、チルソク(ハングル語で七夕の意味)の日の再会を誓い、文通をはじめる。
この世にまだ、携帯電話もメールも存在しない時代。
韓国と日本の間に深い溝があった時代。
親子(父親役で流しのギター弾きを演ずる演歌歌手山本譲二がなかなかいい)の絆や友情を織り交ぜながら、ふたりが想いを遂げるまでの日々を映し出した物語である。
人はどんなときに人を好きになるのか。
恋をするということはどんなことだったのか。
この感情をどう表現すればいいかも分からず、恋愛に不器用な郁子にできることは「走ること」と「見つめること」だった。
毎朝、新聞配達をしながら走るシーン。
グランドを友人と走るシーン。
船で帰る安を見送るため全力で走るシーン。
再会を誓い見つめ合うシーン。
会えないふたりが同じ時刻に星を見ようと提案し、星空を仰ぎ見るシーン。
いつしか僕も、郁子と同じように胸がふるえ、そして涙があふれた。
この映画は愚直で、凛々しく、そしてキラキラしている。
主人公と三人の友人や恋人もほとんど素人に近い役者ばかりである。
撮影も特別派手な手法を使った場面は一切ない。
クレーンを使うでもなければ顔のアップもほとんどない。
奇抜なことは何ひとつしていない。
近年流行の「ジェットコースタームービー」といわれるものからほど遠く、凛とした作り手の媚びない姿勢を感じた。
映画解説の田井肇氏の卓見にまったき同感した。
一部引用する。
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「見つめる眼差し」と「走る肉体」、ただそれだけで、こんなにも生き生きと、胸をドキドキさせる映画ができることを、僕らは忘れてしまった気がする。
いや、忘れてしまったのではなく、あきらめかけていたと言うべきかもしれない。
たとえばアッバス・キアロスタミ監督のイラン映画『友だちのうちはどこ?』やチャン・イーモウ監督の中国映画『初恋のきた道』を見て、その虚飾のない素直さに「ああ、映画って、こんなにも素朴で単純で、よかったんだ」と感動しつつ、その一方で、貧しさを失って豊かになった日本ではもうこんな映画は作れないだろうと、なぜか思いこんでいた。
だが、そうではなかった。
『チルソクの夏』は豊かになった僕らも、まだ、豊かさだけでは覆うことのできない、ある感情がたしかに存在することを思い起こさせてくれる。
どんなに言葉を知り、それを伝える手段がどんなに増えても、なおかつ伝えきれない思いを人は抱き続けることを。
そして、それがある限り、人は人に恋をするということを。
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観終わって、また観たくなった。
久々に応援したくなった映画だ。
地味だが飽きない。
飽きないどころか20回以上観たという人も珍しくないと聞く。
頷ける。
44歳の時『日はまた昇る』で監督デビュー、現在『半落ち』も依然好評、『チルソクの夏』は監督としては遅咲きの佐々部清氏の2作目である。
東京では新宿シネマミラノと上野スタームービーの2館のみの上映。
この連休中、また観にいこうと決めた。