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第202回『無縁、愛、チョコレート』

▼もはや国民的な行事バレンタインデー

 バレンタインデーは終わりましたね。この行事、やっかいなことに空気を読んだり、人の目を気にする傾向のつよい私たちの心情にうまくフォーカスした「行事」であり、いろいろな「格差」を認識する日。なんとも微妙です。あの小沢氏がチョコを女性議員からプレゼントされて鼻の下を伸ばしていましたね。
女子にモテルことがうれしいのは男のDNAのなせる業かも知れません。
 いずれにしろ、このバレンタインデーは国民的行事、老若男女全世代で94%もの浸透度だそうです。(記念日協会で調べ)。そしてその後の3月14日のホワイトデーも80%以上。市場規模については、やや旧いかも知れませんが、バレンタインデーが1300億円市場なのに対して、ホワイトデーは1200億円市場。合わせて少なくとも2500億円に上る市場だそうです。
振り返ると私が広告会社に入社した当時はこのバレンタインデーの導入期。社の得意先の菓子メーカーが「バレンタインデー」なるものの仕掛けを画策、しかし実際は「えっ!それなに?」と言う状況でした。
知り合いのマーケターには、俺が仕掛けたと自慢する人もいますが、流行を見ての錯覚では?もちろん、バレンタインデー普及には商業活動が一役買ったことは間違いでしょうが、巷間に言われるほどには「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と言うのはちょっと言い過ぎのようです。

▼流行の温床は私たちの文化が育む精神的病理

 バレンタインデー定着には、日本独自の精神風土から見る必要があると言うのが今や定説。これは仕掛け側がモデルとしたアメリカのそれとは異なった「義理チョコ」や「ホワイトデー」と言う贈り物習慣が生まれたことと無関係ではないようです。
 バレンタインデーの流行には、小学校高学年から高校生の役割が大きかったことが指摘されています。
 歴史的には女子が男子に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が社会に定着したのは1970年代後半で、ホワイトデーや義理チョコは1980年代前半と言われています。
 2000年代以降は市場や目的も多様化。女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的の「本命チョコ」とそれとは別の、既に交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着、義理チョコは1990年代後半以降衰退傾向にあるものの、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」、また自らのためにチョコを求める「自分チョコ」といった様々な展開され、いまさらに加熱状態にあるのはご承知の通りです。
 インターネットによる意識調査を手がけた会社によれば、「こうした贈り物習慣がなくなればいいと思う」独身女性が7割は超えて存在する一方、そうした「反対」とはうらはらに「贈られるのは賛成」と言うちゃっかりさんも多いようです。
 バレンタインデーやホワイトデーの動機には、「日頃の感謝の気持ちを表す機会」「コミュニケーションを円滑する」「楽しい行事のひとつ」とかが挙げられ、義理チョコに対しても若い人はポジティブ、年齢層が上がるほど否定的な意見が強くなる傾向にあるようです。
 独身男性では半数がこの習慣には「反対」で、理由は3倍返しと俗に言われている「ホワイトデー」での大きな金銭負担をはじめとして、妻子ある男性でも、他人の女性にプレゼントをすることを強要されており、一種の「義務的イベント」として考えて不快感をもつ人も多いことなどのようです。また極論すれば「バレンタインデーは環境型セクハラにあたる可能性が高い」との指摘も・・。

▼止めたいけれど止められない・・・!

 以上はバレンタインデーの概説ですが、なぜこの行事が止められないのか?止めたいと言いつつも隆盛するのか?です。
 私的にはこの現象が続く理由は、「自分探し」、「孤独死」「無縁」など一連の病弊と共通の基盤に根ざしているからではないか?と思います。
 20世紀の後半60年を掛けて、私たちは地縁、血縁、社縁などすべての縁切り捨ててきたのは今更言挙げすることではありません。
 その根底には「私・個人崇拝」がある筈で、・苦しくなったら、・寂しくなったらといって「きずな」や「つながり」など縁を求めるのはちょっと虫がいいのではないか?と思います。
 例えば縁。日本はかつては「縁」を大切にしたとの話もありますが、本当でしょうか?民俗的に考えるだけでも路傍に多く散在する道祖神や地蔵さんが、行き倒れや子殺しの供養であったことは明白な答えはでしょう。人は孤独に生き、孤独に死んでいったのです。
しかし、現実には人は孤独には耐えられないのが本性。
 フランスの哲学者J/クリスティバは「愛」と言う病気の存在について述べていますが、近代が引き受けた「孤独」への処方として「愛」が創られたのは事実だと思います。
その意味でバレンタインデーは「愛の度合い」「愛の格差」「自身の認められる度合い」の診断基準とも言えます。
一方「チョコ」が貰えないことは、孤独への脅迫であり、「無縁」の自覚を迫るものかも知れません。
「無縁」「格差」の淵をさらに深める罪深い行事として機能しないよう祈るばかりです。
 出来れば無縁者、格差解消に「愛」の御恵みを!

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