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第180回『バンクバーオリンピック』

バンクバーオリンピックが終わりました。
へそ曲がりの私も、なんのかんのと言いながら結構見てしましました。見ているとあまり馴染みのない種目でも面白く楽しめるもので、それなりにハマりました。
景気の悪化が続くと、家庭内での時間を過ごす人が増大するようですが、オリンピックはそうした人々の行動を加速させた気もします。天気も外出するには悪かったですね。
そうした内向きの生活では、洋の東西を問わずにレジャーはやっぱりTVとインターネットとなるようです。
今回のオリンピックでは、とりわけ意識されたのはオリンピックへの取り組みや評価への変化です。

▼メダルにこだわる・・・国とマスコミの時代錯誤

まずは時代錯誤的なオリンピック幻想の後退です。スポーツには代理戦争的な側面は付きものだと思いますが、こうした勝った、負けたが生活者レベルでは、共感に結びつかなくなったと感じました。
日の丸を背負う、国家の威信、民族の優秀性の顕示など、マスコミは「日の丸飛行隊」「神風特攻隊」などと煽っていましたが、視聴者は白け気分だったのではないでしょうか?
またメダルの獲得について石原都知事や国家の支援を財政面で求める橋本聖子団長のコメントなども、時代からかけ離れた発言で、「もっとやることがあるだろう!」と叫びたくなるのが庶民の心情でしょう。
戦後敗戦で自信を喪失していた時代には古橋選手の活躍も私たちへの応援歌になったし、東京オリンピックも、日本が世界へ参加が出来るまでに復興したことのひとつの証明として、有効であったことは否定しません。
民族、国家をベースとしてオリンピックを捉える考えももちろん根強くあります。韓国、中国、ロシア、そして日本などそうした部類に入るでしょう。
こうした国の関心はメダル、とくに金メダルの獲得数です。が、主催国カナダをはじめとしてEU諸国はメダル獲得にはあまり拘泥していないようでした。オリンピックは、スポーツでエンターティメント、国威を競うのは意味がないと言うお国柄かもしれません。

▼マーケティングとテクノロジーの競演への疑問

もうひとつは別の競争です。とくに感じられたのは、技術と管理技術の2テクノロジーの競争です。これはこのスポーツイベントが、経済競争のひとつとなってきたことを示しているように思われます。このことは、あの北島選手の水着から端を発していると思いますが、今回では、スピードスケート選手の靴やユニフォームに見事に反映されています。
見方によっては人間の競争と言うよりは、ロボットの競い合いと錯覚する状況でした。背景にはIT技術、素材開発、生理学、空力学などがあり、こうした各テクノロジーを支えているのは企業の技術力です。
また管理技術も大きな要素です。あの華麗なフィギュアスケートでも、多数の支援スタッフのチーム力が結果に結びついているとのことです。カーリングも同じです。もちろんこうした技術を生かし切れるのは個人の才能ですが、反対に個人の能力がテクノロジーにより支配されているかのようであり、「そこまでするの?」と言う疑問です。
知人のフランス人は「もうスポーツじゃないよね」と冗談を言っていました。
市場原理に依存するマーケティング競争では「勝者がすべてを獲る」と言う考えもありますが、こうした考えをスポーツに持ち込むことは問題でしょう。
勝者となって何がその人にもたらされるのか、スポーツの本質は人生を豊かにするものと考えれば秒差を競い成果だけを価値とするオリンピックスポーツのあり方は、冷静に考えてみる必要もありましょう。

▼人の時代がデビュー

確かアメリカのフィギュアスケートの女子選手であったと思いますが、学校の試験の途中で参加し、また試験を受けに戻ると言っていたのには、好感が持てました。人生とスポーツをどのように共存させるのか?彼女の行動はひとつの答えでしょう。
アーマティン・セン氏の言葉ですが、曰く、いまや「一人の人間がさまざまなアイデンティティを持っていることを認めなければならない。」
日本人で、ロンドン在住で、ジャーナリストでという具合に、人はいくつものアイデンティティを持つようになりました。「居住地への愛着、母国への愛着、文化への愛着、どれも矛盾なく共存する」時代です。(著作:アイデンティティと暴力)
キムヨナ嬢にしても韓国が出自ですが、生活の場はカナダ。真央ちゃん、美姫ちゃんにしても、もはや国家を超えて行動し、人々に感動を与えています。
そしてこうしたトップアスリートへの共感は、一つだけのアイアデンティから生まれるものではないことを今回のオリンピックは示してくれたのは大変意義深いことです。
どこの国に帰属するか、どんな宗教の教徒であるかより、オリンピックに参加し、競う彼ら、彼女らの想いと努力、そして紡がれた物語が私たちを惹きつけました。
転倒や失敗に拍手することではなく、人間だから仕様がないという「寛容」が、どのスポーツ観戦にも彩られていたことは、今回のオリンピックの大きな進歩ではないでしょうか?
まさに「人は自国の視点と、それを離れた視点を持つことの豊かさ」を実感したと言えます。
その意味でバンクバーオリンピックは、人間を意識させ、同時にこのビッグイベントを支援したカナダの人々の成熟を感じ取れたイベントでした。

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