晦日の夜、いたう暗きに、松ども灯して、夜半すぐるまで、人の門たたき走りありきて、何事にかあらん、中略
・・・かくて明けゆく空の気色、昨日にかはりたるとは見えねど、ひきかへめずらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ
ご存じ、「徒然草」のワンフレーズ。
どなたさまにも新年明けまして、おめでとうございます。
年の瀬から年明けの街を歩くのは、昔も今も楽しみのひとつではないでしょうか?
でも気になるのは今年は活気に乏しいのが肌身に感じられることです。
いろいろあるとは思いますが、時代の流れが早瀬のように流れて、いままでの暮らしぶりを大きく変えていきつつあるのかもしれません。
それにつれて、松飾りや餅飾りが少なくなっていく事には一抹の寂しさも感じますが・・。
▼少ない鉢では、動かない
暮れになると思い出すのは、起業した頃に、花のプロジェクトを頂いて、パートナーと一緒にシクラメンの鉢とポインセチアのそれを街頭で販売したことです。いわゆる引き売りですね。
売っていて気がついたことですが、いずれも陳列している鉢が多い間は、売り足は速いのですが、10鉢位に数が減ると、不思議にぴくりとも動かなくなることでした。また、この手の鉢は、つぼみが多い方が、後々まで楽しめおすすめするのですが、買っていく人は、その時の花つきで選んでいくことです。
これはどういう事でしょうか?もちろん花が多い時の方が目立つし、買う気もそそることは理解できることです。が、同時に花を買うことは「華やかさ」そのものをも手に入れることだと思いにも至りました。
こうしたことは花に限りません。
焼きたてのパン、熱々のお総菜、魚屋さんの威勢のよい呼び込みなど、考えてみれば食事するときには忘れられていることでしょうが売り上げには大いに役立っています。
▼あなたは何を売っているのか?
かの「化粧品を買うのは美しくなれる夢を買うのだ」という古典的な言葉を今一度思い出されます。
先日さるNPOが主催したフェアトレードを見学に赴きしました。感じたのは、売りたいものを見せるだけで売れると考えるのは大きな間違いではないか?ということです。
主催者側も、ここに参加する方もボランティアの人が多いので売れることもあるでしょうが、しかし、こうした場で売れたことは、本当に売れたということでしょうか?
敢えていえば、チャリティなどの場のように寄付がカタチを変えたにすぎないのではないか?
売るには売るの仕掛けが必要です。
その基本の一つはシクラメンで見られるような、豊富感や楽しさの大盤振る舞いだと思います。
「在庫を持ちたくない、ロスは少なくしたい」は、当然の考えです。
しかし、この考えに拘りすぎると棚や店頭の魅力は低下します。
▼正しいモノは売れるというのは思い上がり?!
また、いいもの、いい考えにもとづいた商品であれば売れると思うのは思い上がりというものでしょう。
不況への対応に「エコ」や「介護」が話題です。こうした官製の用の提案は間違っているわけではありませんが、いわゆるお墨付きを背景に「用」が市場を創造するわけではないと思います。
そして用ばかりに頼っては、骨ばかりで生活文化は干からびてしまします。
不況が怖いのは消費文化を創る側の想像力の低下、減退ではないでしょうか?
エコであれ、介護であれ、価格破壊であれ、その商品がどのような豊かさを私たちにもたらしてくれるのか?それを発見して提案するのが大きな課題ではないでしょうか?
迫り来る生活不安は、人々の心を萎びさせています。
しかし、これに作り手・売り手が同調してどうなるの?です。
街の賑わいが失せた初春の街を歩き、不況が及ぼすこうした心に与えるこわさを感じました。
貧乏神は、貧乏人が大好き。
「虎の威を借るマーケティング」では、困るぜよ。