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第56号『オリジナリティ』

ある玩具メーカーのテレビCFのお手伝いをすることになった。
玩具メーカーの製品を使用したテレビアニメをそのCFのなかに数カット挿入したいと提案した。
提案に対しての回答はアニメ使用の許諾は出さない、というものであった。
(アニメのイメージを壊さず独自のアイデアで表現したのだが・・・)
アニメの動きや音の使われ方からイメージの扱われ方まで逐一管理し、キャラクターのブランドを守るために少しでも逸脱するものは問答無用、切捨て御免というわけである。

極端な例ではあるがバイクメーカー、ハーレー・ダビットソンは自社のエンジン音にまでレジスターマークを付けようとしたが、さすがにそこまでは認可されなかったという。

「オリジナリティ」を生み出し、「ブランド」として育てたという高らかな権利の主張。

しかし、なぜこれほどまでに著作権や登録商標でがんじがらめに保護しようとするのか。

模倣を許さないことにより、価値の劣化を防ぎ価格競争の荒波から守ることができる。
したがって競合への障壁になり、安定した収益を確保できる。
ブランド構築によるマーケティング戦略はいわばこうした概要で語られる。

そしてその根幹にあるのは独創的なアイデアは絶対的な善であるという考えである。
他に存在しないものを作り出すことが最も価値あることだとする「オリジナリティ神話」。

『日本文化の模倣と創造』の山田奨治氏によれば、「オリジナリティ」なるものは、それほど昔からある概念ではないという。
すこし引用する。

オックスフォード英語辞典(OED)第二版によると、英語の「オリジナリティ」の初出は1742年である。これはイギリスで小説というジャンルが誕生して、著者たちによる権利主張と一致する。
さらに「クリエイティビティ」は1875年初出であるという。
ことば自体がないのだから、その時代までは、作り出したもののなかに「オリジナリティ」や「クリエイティビティ」が求められることはなかった。
ちなみに日本では「オリジナリティ」の日本語にあたる「創造」も「独創」も1934年の『大言海』には載っていない。
1936年の『大辞典』に「独創」は取り上げられているが、「創造」はない。
「独創」が日本語として一般化したのは、1930年代なかごろと推測できる。

歴史的にみても新しい概念である「独創」は絶対的な価値ではなかったことがわかる。
それにも関わらず、著作権や登録商標による「オリジナリティ神話」はなぜ強固に叫ばれるのか。

それは、著作権制度という名の武器で先進国が発展途上国へと文化的に進出し、富の収奪を行うことが近代国家の成立と存続に必要な原則であったからだ。
だから、創作の過程で行われた他からのコピーは隠蔽される一方、創作物に触れる他者はコピーを禁じられ、徹底的に排除されてきたのである。
しかし、今やデジタル機器の進化によって、限りなくオリジナルに近いコピーが可能になり、結果としてオリジナルとコピーの二項対立そのものが意味を持たないところまできている。

本来、わたしたちは模倣がさまざまなリテラシーを獲得するための最良の方法であることも、創作の前提であることも自明としてきたはずである。

昨夜、僕はボツになったCFプランのシートをしばらく眺めた後、ゴミ箱にそれを放り投げた。
そして、「所詮、すべての創作物は引用の織物じゃないか」とうそぶき、また「オリジナリティ」を探しはじめることにした。

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