差別や戦争は偏見から生まれる。
では、人はなぜ偏見をもつのか?偏見とはどうして生まれるのか?そして、その偏見を克服するためにはどうしたらいいのか?
「偏見」をテーマにした国際理解教育のワークショップに参加したことがある。
移民問題(白人とアボリジニあるいはアジア系との対立は根深い)を抱えるオーストラリアでは、すでに公立の小学校でも取り入れているプログラムである。
その時、行った具体例を1つ紹介する。
まず10人一組になり教室から出て石を4~5個拾ってくる。
教室に戻り、テーブルを囲み集めた石ころをテーブルの上に2個ほど乗せ、マージャンのパイのようにガチャガチャ混ぜる。
その後、自分の置いた石を摘み出す、というものである。
簡単なことである。
ところが、いざ摘み出そうとすると意識無く置いた石はどれも似たようなもので、はたしてどれが自分の置いた石であるか判然としない。
そこで再度残った石をテーブルにおいてガチャガチャ混ぜるのであるが今度は混ぜる前にその石をじっくりと眺め、その石がどこからどんな来歴でいまここにあるかを思い浮かべ、ストーリーを作る。
そしてガチャガチャ混ぜる。
なんと、というべきか当たり前というべきか、自分の置いた石がどれであるか今度は瞬時に分かる。
オーストラリアではこうしたワークショップ学習での体験を通し、人種や宗教には、それぞれ固有の来歴があることを理解させ、自分たちが普段なにげなく分別しているアボリジニの子、あるいは、ポリネシアンの子、チャイニーズの子という乱暴で無自覚な括りでしか見ていないことが、いわれの無い偏見や差別を生んでいるのだということを早い時期から認識させようとしている。
入門書の傑作である内田樹著「寝ながら学べる構造主義」の一文である。
この一文を読んだとき、偏見とはなにかが分かったように思えた。
少し長くなるが引用する。
「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは、自分が思っているほど自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている。」そして自分の属する社会集団が無意識に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの主題となることもない。」
かつて、朝鮮と満州を侵略した日本人が抱いていた中国人や朝鮮人に対する偏見が、差別とあの戦争を生んだのである。