獅子舞と広告取りお断り、こうした表示が一流企業と言われる会社の受け付けには、必ずといってよいほどに掲出されていたことを古い広告マンなら覚えておられる方も多いと思います。
広告が世間様では無用のもの、強要されて出すものと見なされていた時代の、いわば象徴ともいうべきものが、この獅子舞と広告取りお断りの表示だったと思います。
きっと先輩達は屈辱感を味わい、社会の居場所を求めて広告の産業の確立を夢見て意欲を燃やしたことでしょう。
それからおよそ半世紀、広告は産業と位置付けられて時代の寵児とも言えるほどの地歩を得るに至りました。
そして広告会社に働きたい若者が増え、いまや多少名の知れた広告会社は、若いリクルーターにとっては超狭き門と言う状況にあります。
これはこれでとても喜ばしいことですが、気になるのは、業界で働く人の意識です。
かつて大学は、入学することが目的化していると非難されたことがありました。
そしていまやその延長に広告会社があるような気がしてなりません。
たしかに、情報社会はD・べル(社会学者)が言うように、限りなく専門業者を生み出し、電話帳を厚くしてきました。
ひとつの仕事をするのには、数多くの専門家を結集させねばならない事実は、もし、映像制作の見積もり書式を見る機会があれば、納得されるはずです。
そして専門化が進んだ分、仕事における個人の存在は、きわめて薄くなりました。
そのためでしょうか、「仕事と自分」を見つめ考える機会も少なくなってきたのではないかと思います。
私が業界に参加していた折、ある意味でショッキングな事件が2つありました。
ひとつはある若い広告マンが新聞広告の送り原稿を抱えてビルから飛び降り自殺をしたこと、もうひとつは高名なCMディレクターが自らの命を絶ったことです。
この2つの事件は、仕事と我がことが重なっていた時代の悲劇であったのかもしれません。
いずれも広告と言う仕事について、ある意味で他人様に信頼を頂き、その結果、自己がやるべき仕事として重く引き受けていた生真面目世代を物語る事件であると私には思えます。
私は、こうした真面目世代の後に、来たものであり、死と直面するほどに物事を詰めて考えたことはありません。
たかが広告、仕事なんだから死ぬことはないじゃないか、と思いう人種です。
しかし、一方で「されど仕事」です。
仕事の修羅場では仕組みや組織は無力です。
頼れるのは自分への信頼関係と達成意欲だけです。
あのホリエモン事件も収束しそうですが、その過中で垣間見えたのは、いわゆる業界人の官僚化、ないしは会社人間化です。
生活維持にこだわり、保証を期待すると「業界人」は堕落します。
また、支払われるお金の多寡が、当然のモノとされる仕組みとなってしまったら問題です。
いま、新しい視点での創造的な破壊が必要とされていますが、それには自分が本当に欲しいものを価値として提示するしか、解決の道はないと思われます。
それには、明日はまったく保証されない「河原モノ」意識、または「婆娑羅」の覚悟こそがいま求められる気がします。
無理を承知で思うに、「獅子舞と広告お断り」。
そんなアウトローな世界から生まれる妖気をもったエネルギーが、懐かしく、同時に今必要と思えます。
これは何も広告人を目指す人ばかりではなく、マスコミに関わろうとする人にも言えることです。