腹がへったら食べる。
健康な体は、それを美味いと感ずる。
しかし、以前に比べ、食べ物に力がない。と思うことがしばしばある。
1950年に作成された初訂日本食品標準成分表と、2000年に作成された五訂日本食品標準成分表に記載されている野菜のビタミン含有量を比較し、その違いに愕然とした。
ほうれん草に含まれる鉄分は50年の間に約1/6以下に減り、玉ねぎに含まれるビタミンB2は、約1/2に、かぼちゃに含まれるビタミンAは1/3にと、それぞれ、いずれも大幅に減っているのである。
この現象は、どの野菜にも当てはまる。
季節に関係なく、いつでも容易に手に入るようになった現代の野菜は、50年前に作らた野菜と一見、姿形は同じようにみえるが、実のところまったく別の食べ物なのである。
それは例えば、ねぎのくさみであったり、春菊のえぐみやピーマンのにがみなど、それぞれの野菜がもつ強い個性が薄れ、一様に甘く食べ易くはなったが、それと同時に、私たちのからだを支えてくれていた力も失ったということでもある。
最近、普通の家庭の普通の食卓をリサーチした本を手にした。
その本のなかに収められた食卓の写真をみた。
そのなかの一葉。
テーブルの上には、スーパーでパックされたままの刺身、大皿に盛られた天ぷらやとんかつなどの揚げ物とサラダ、そしてウーロン茶のペットボトルとビールが無造作に、置かれている。
これが日本における今日の普通の家庭の普通の食卓だとすれば、一汁三菜ならば各自の善には一つの椀と三つの皿があるのが普通であり、それを常識としていた自分の常識も、もはや成立しないと思った。
こうして、食べ物と食べ方から得ていた私たちの文化が、破壊されていく様を日々甘受している。
『美味礼賛』や『味覚の生理学』の著書で知られるフランスの美食家、ブリア・サヴァラン(1755~1826)の箴言のなかのひとつに「君が食べているものを言ってみたまえ。
君がどんな人間であるか言い当ててみせよう。」という一節がある。
サヴァランなら、この国の人々がどんな人間であると言い当てたであろうか。
美食家でもなければ、それを気取る趣味も持ち合わせていなが、少なくとも、いま私たちの生活の基本である食べることが揺らいでいる。
そして、生かされることのないノウハウや、消化できない情報の氾濫の中で「こだわりの料理」や「デザイナーが介在したテーブルウェア」などをこれ見よがしに喧伝する雑誌やTV番組が、いっそう食の現実を虚しくさせている。