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第88号『誤訳』

父親に折檻され、電気ショックで息絶えた女の子の事件が昨年末あった。
母親に放置され、餓死した男の子の事件もそう古い話ではない。

いずれも、不快な、でも、ありふれた日常の事件として、新聞の片隅に記載されていた。

こうした事件も数日もすれば、不幸な巡り合わせのもとに生まれた子供たちの、アンラッキーな出来事として日々の生活の中で跡形もなく風化していく。

いま、この国の子供たちは愛もなく、謂れもない暴力から逃れられず見捨てられている。
そして、この事実は稀でなく、間々ある。

親から拒まれ、打ち叩かれる子供の心中はどんなにか深い悲しみと絶望感に襲われていることであろうか。
しかも、こうした暴力を受けたことのある子供たちの大半が、自分が悪いから親から折檻されるのだと思い込んでいるという。

身体が傷つき、医療機関に保護されるか、殺されることでしか、こうした親から解放されないというのはどういうことなのか。

子が親に虐待されているとすれば、ご近所が知らないはずもない。
大邸宅に居を構えているのならばともかく、窓を開ければすぐ隣は壁というのが大半の住まいである。
そうであれば、普段、殴る、蹴るの音も尋常ではないはずであるし、聞こえてもくるであろう。

人様の家庭のことだから、関係ないということであるのか。
あるいは、自分の子供のことで手が一杯で他人様のことなど構っている余裕など持ち合わせていないということなのか。

かつて共同体を支えた「規範」や「道徳」は跡形もなく消え失せた。
変わりに、他人に迷惑をかけなければ、なにをしても許される「自由」を手にいれた。

FREEDOMを<自らを由とする>と訳した福沢諭吉の「自由」は、どうも<自らだけが由とする>と誤訳されているようだ。

私たちは戦後、「規範」や「道徳」というネズミを火で納屋から追い払い「自由」を手に入れた。
しかし、どうやらその火で納屋まで焼き払ってしまったようである。

「自由」であることは、必ずしも幸せを意味しないことなど、いまや自明である。
いや、むしろ私たちは御しがたい怪物を産んだのかもしれない。

こうして、いまも怪物は日増しに肥大し、この国を闊歩している。

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