第84号『醜さということ』

また近所に、ミニ分譲地が造成されている。
さらに、そこから数十メートルも離れていない空き地に部屋数、数十個の集合住宅が建設予定との看板が立った。
不景気が叫ばれて久しいが、住宅建設の需要は止まることを知らないかのようだ。

そうして数ヶ月もすれば、プラモデルのような住宅が並び、歯の浮くような言葉に彩られたチラシと変哲もない四角い箱が現れる。

親代々からの土地を受け継いだ人を除けば、大半の人たちが、マイホームのために一生働き続けるような人生を選んでいる。
これはきっとどこかで、見えない呪文にかけられているのではないかとは思うことがある。

日本の住宅が三、四十年も経過すればそのほとんどが、耐久性に問題が生ずることを周囲の建て売り住宅や昭和30年代に建てられた初期の集合住宅の現状が証明している。
にもかかわらず、戸建て住宅や分譲マンションが建てられ、私たちはその資産価値を信じて数千万の投資をしてきた。
投資した建物は、少し古くなれば買い換えることさえ困難であり、しかも、十数年も経てば補修をし手を入れなければ住めなくなるのが現状だ。

マイホーム願望をくすぐられ、ようやく手に入れた戸建て住宅や分譲マンションは、まるでシンデレラの童話に出てくる呪文にかけられたカボチャの馬車だったような気がしてくる。

戸建て住宅も、窓を開けたら見えるのは隣の家の壁、土地は猫の額ほど、こうした実情の中で自分の一生をかける価値があると信じなければ、とてもではないが買えないであろう。

こうしたマイホームのために、一生を捧げ働き続けることに多くの人は不安と疑問を感じている。(と思う。)
しかし、現状はとりあえず思考から外しておくことでその不安と疑問を回避しているに過ぎない。

私自身もローンを抱えているが、そもそも、数千万円を二十年、三十年のローンで借りる行為は、冷静に考えれば考えるほど正気の沙汰とは思えない。
一体いつから、私たちは長期ローンに疑問を感じなくなってしまったのだろうか。

常軌を逸した借金を背負ってまで手に入れたマイホームも、資産価値を維持することが難しくなる物件が大半である。

それでも手に入れたいと思う、この呪縛は何か?
それは、家族を結ぶ幸せがそにはあるはずだというマイホーム幻想であり、この国は成長し続けるという経済幻想だったのではないか。

仮に、戦後日本に国家感と民族としての美意識があり、堅実な住宅政策がなされていたなら、私たちはもっとゆとりのある生活を営んでいたはずであるし、国土の乱開発も住宅ローン地獄もなかったであろう。
そして、美しい住宅がつくる美しい街を景観として、大切に守る伝統も生まれていたに違いない。

翻って、今日かくも醜い景観を受容しているということは、私たち日本人の貧しさを体現している証左である。

なぜならば、外観は内面を映し、内面は外観に左右されるからである。

追伸
ファンサイト84号「醜さということ」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回、書いていて、この国はどうなってしまうのだろうかと少し暗い気分になりましたが、自分のなかでまとめておきたいテーマの一つでした。
現実を見つめることはちょいと辛いことです。
でも、その現実を踏まえなければ進めないと思ったからです。

人生は前にしか進まない。
だから、やっぱり前向きに歩いて行こう。

来週もご高覧のほどよろしくお願いします。

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