文明とは自然の摂理からの無限の逸脱にすぎない。
そのことを証明してみせたのは文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースである。
文明の目から見れば未開は幼稚に見えるだろうが、未開から見れば文明が幼稚なものに見える。
少なくとも未開の長老の目にはそう映っただろう。
好奇心は幼稚の特性でもある。
文明はこの幼稚の特性を増大したにすぎない。
レヴィストロースによれば「文明人」と「未開人」はその関心の持ち方が違うのであり、「文明人」が見るように世界を見ないのは、別段「未開人」が知的に劣っているということではない。
しかし、あらゆる文明は自分達の思考こそが客観的であると過大評価する傾向があるとも述べている。
『野生の思考』の冒頭で、ある人類学者がフィールドワークで雑草を摘んで「これは何という草ですか?」と現地の人に訊ねたら大笑いされたというエピソードが書かれている。
何の役にも立たない雑草に名前などなく、それを訊ねた学者が笑われたのである。
「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。」(『野生の思考』)
ある事柄についての概念や語彙が多様で豊富であるということは、その集団がその事柄に対して強く深い関心を持っているということである。
「春雨」「霧雨」「雷雨」など日本において雨についての表記は多様にある。
それは稲作をベースとした生活のなかでもっとも関心のある事象であったからであろう。
「再生」「再建」「リニューアル」「リフォーム」「リサイクル」「リメーク」「リミックス」気が付くと近頃、日常生活のなかで氾濫しているキーワードである。
「再」や「re(り)」で始まるこれらのことばは、新たに作り上げるのではなく、立て直したり、修繕したり、保存したりするいまの時代の気分を掬い取っている。
それは、おそらくすべての場所でなにかが壊れ始めていることの現われでもあるのだろう。
さて、これから作るにしろ、壊すにしろよほど覚悟を決めてかからなければならいところまで来ていることだけは確かである。