逝き方は生き方を決める。
人のいきかたはそのひとの意志による。
70歳で自分の生をまっとうすると宣言した恩師、幹英生は2000年11月19日自らの画業50年の出版記念パーティのその日、5月からの闘病生活の末、宣言どおり他界した。
出版記念会場はその場で急遽、偲ぶ会になった。
生前、その交友は驚くべく広く、発起人となった人たちは例えば、三島由紀夫をモデルにした「薔薇刑」の写真で知られる細江英公、デザイナーの早川良雄、イラストレーターの宇野亜喜良、俳優の穂積隆信などが名を連ねていた。
講談社に程近い音羽のアトリエに時々お邪魔し、先生とコロッケをつまみに大好きなウイスキーを飲みながら夜遅くまで様々なお話しをさせていただいた。
先生のアトリエには生前、交友のあった池田満寿夫の焼き物(版画だけではなく後年の焼き物もすばらかった)や現代アートの川原温からの手紙(これも作品である)など、さまざまなものが雑然と置かれ、先生の描きかけのキャンバスからはオイルの臭いがほのかにし、なんだか昔、高校の美術準備室にいるような雰囲気もあって好きだったのかもしれない。
ともあれ、ぼくにとって、とても居心地のいい空間だった。
先生は作家として大成したとはいいがたいが、彼の描いた人生のグランドデザインはいまでも多くの人に影響を与え続けている。
少なくともぼくにはその影響が濃く残っている。
先生だったらこんな時、どう考えるかなと時々自問する。
先生がよく話してくれたことのなかで特に印象に残っていることばがある。
自ら壊し続けることによってしか新しいものは見えてこないよ。
「創造的破壊」を続けることができるかどうか。
それがものを生み出す最大のポイントなんだ。と。
2003年、はたして、ぼくにどんな「創造的破壊」ができるのか、答えを出すのはこれからである。
新年あけましておめでとうございます。
今年も、ファンサイト通信を配信させていただきます。
皆様とともに成長し、ともに創造していけたらと願っています。
今年もよろしくお願いします。