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第38号『記憶−終わりなき構築』

イギリスの新鋭、クリストファー・ノーラン監督の映画「メメント」を観た。
(「トレイン・スポティング」のダニー・ボイル、「スナッチ」のガイ・リッチーなどイギリスの若手監督たちはなかなかいい。)

妻を目の前でレイプされ殺された主人公は、その後記憶を10分間しか維持できなくなる。
犯人探しのため紙にメモし、ポラロイド写真を撮り、ついには自らの体に刺青をして記憶を留めながら犯人を探していく。

前作、「FOLLOWING」では、見も知らない男や女を尾行し、その部屋に進入し、男や女の生活を推論することを趣味にしてしまった男のなんともスリリングで、ありうるかも知れない人間のあやうさを、ヒッチコックばりの軽妙なタッチで演出していく力とその才能に驚いたが、今回は「記憶」を舞台回しに、ありもしない世界(虚構)=映画を組み立てている。

ジャック・ラカンの「精神分析における語りと言語の機能と領野」によれば、「記憶」とはかならずしも過去の真実とは限らない。
あらゆる自分についての物語がそうであるように、断片的な真実を含んでいるとしても本質的には「作り話」でしかない。と言及している。
なぜなら、私たちが過去を思い出すのは「聞き手」に自分がどんな人間であるかを理解してもらい、承認してもうことができそうだと思えた時である。
別の言い方をするなら「自分がどんな人間であるか」の告白は「自分をどんな人間と思ってほしいか」というベクトルで話されるのである。
つまり、閉じ込められ、封印された記憶を解き放つと、そこに立ち現れるのは昔の過去ではなく私がこれからなりたい、あるいは私がそれになりつつあるものを、未来のある地点において、すでになされたこととして語る前未来なのである。と

そして、自らの「記憶」を語ることとは他者との関係の可能性を求め、物語を共有することによってコミュニケーションを喚起させることにほかならい。

たぶん言葉は不完全であるが、それでもなお、われわれは言葉にすがるしかない。
「記憶」を語ることとは不完全な人間の内実だとしても、物語を語ることの決意と決断が自由を獲得するための唯一の方法であるから。
とすれば「記憶」とは「希望」という言葉の置き換えなのかもしれない。
なぜなら記憶とは終わりなき構築なのだから。

* 今回、港千尋氏の「記憶」講談社選書メチエからたくさんのヒントをいただき文末の引用をさせていただきました。

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