
私たちの回りはあまりにも多くの哀しみや、憎しみが蔓延している。
リストラ、倒産、年金破綻の予感と老後不安、それを決定付けるかのような政治の無策と停滞。
そして、行き場のない怒りが幼い子供たちや無差別で荒唐無稽な殺戮行為へと連鎖していく。
まるで、得体の知れない「怪物的なもの」が覆い被さっているかのようだ。
「怪物的なもの」とは何か?
制度化され、工場化された人間性の尊厳の軽視と抹殺。
この軽視、抹殺の業務を受け入れ執行する者とその手先。
そして、何万もの人たちが、なにひとつ知らない状態に置かれ、いつまでも置かれ続けている状態にあるという事実。
なにひとつ知ろうとしなかったのは、なにひとつ知ろうとしなかったためであり、それは実のところ、知ろうとする思考を停止した私たちのことでもあるのではないか。
想像力や責任能力が減少し続け、それがある一定の規模を超えると、人は思考を停止し無能に至る。
つまり、私たち自身も得体の知れない「怪物的なもの」の一部であるのかもしれない。
しかし、たとえ無能という状態のなかにあっても、人は最後の最後に責任という道か無責任という道かの、どちらかを選ぶ。
あまりに厚顔無恥で無責任な行為を、単なる事務処理として捉えることで済まそうとする不実な人たち。
私たちの周辺にも、この種の人びとの想像力と主体性の欠如による悲劇が今日も続く。
これが、2008年暮れに私たちが立たされている風景だ。
所在ない明日への焦燥感と不安。
それとは裏腹に、抜けるような青空が青くひろがる。
だからこそ、いま、寺山修司のこの詩を口ずさんでみる。
「空だけが素敵に晴れている。あすも天気にちがいない」