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第127号『新たな階層社会の出現』

私たちは、往々して少数の個体のふるまいの微細な変化から始まる社会の変動に気付かないで過ごすことが多い。

「内部生たちは、学生鞄を持たずに当時はまだ珍しかったレスポとやらの軽いナイロンバッグを肩に掛けたり、アメリカ製のごついデイパックだったり、ルイ・ヴィトンと言うのですか、あの重そうなボストンバッグだったりと、大学生のように様々なスタイルで通学して来たのですよ。お揃いなのは、茶のローファーにラルフ・ローレンの紺のハイソックスを穿いていることだけ。毎日、時計を替えてくる生徒、ボーイフレンドとお揃いらしい銀の腕輪を制服の袖から見せている生徒、色とりどりの美しいピンを針のようにカーリーヘアに付けいている生徒、ガラス玉かと見紛う大きなダイヤの指輪をしている生徒。(中略)富というのは、常に過剰を生むものなのです。だからこそ自由で淫らなのです。」

桐野夏生の傑作、「グロテスク」の一節である。
死に物狂いで勉強し、私学の有名女子高、Q女子高に入学した主人公が、どうにもその差異を埋めることができないと感じる場面である。
そこで内部生と呼ばれる付属幼稚園や付属小学校の時から、この学校で育つ富裕層の子どもたちの風情である。

これとほぼ同じ実態を、関西の某私立大学付属女子高校に勤める知人から聞いたことがある。
彼女らはブランドものをさりげなく身に付けることだけではなく、親が海外にセカンドハウスを持っているとか、バイリンガル、あるいはもっと複数の言語を自然に操ったり、自宅でコンサートを開いたり、セザンヌの本物が壁に掛けてあるとか、いわば表層ではない、身に付き身体化された文化資産を有している子どもたちである。と。
しかも、こうした子どもたちの多くは、そのまま系列の難関私立大学に進むか、国立大学に軽々と入学するという。

こうした子どもたちがいる一方で、凡庸な子どもたちは、本を読むことはもちろん、学校の教科書を開くことさえしない。
1999年のデータであるが、日本の中高生の子どもたちのなんと40%が自宅学習時間ゼロ。

苅谷剛彦・東京大学教授らの研究によれば、親の学歴、職業、所得が子どもの学歴形成に明らかに関与しているという。
さらに、最近の研究では、子どもの仕事に対する意欲まで、親の階層が左右すると主張している。

一説によれば、東大入学者の親の平均年収が1,500万円以上。
親の経済力と、子どもが身に付ける学歴資本のあいだに、あらわな相関関係がすでにできている。

社会に潜む格差、不平等は上位にいるものも下位にいるものも触れたくはない病のようなものである。

一億総中流から二極化へ。

しかし、ことは年収による二極化に止まらない。
いや、むしろ、年収ということでの二極化なら、病状は軽いというべきである。
例えば、年収によって階層化される社会ならば、上流から下流へと変化、流動する可能性はある。
例えば、一夜にして倒産したオーナー企業の社長も、その逆に、一夜にして売れっ子になり、納税番付に載った漫画家も知っている。

しかし、いま静かに社会は流動性を失い、停滞し始めているようだ。
そして、これまであまり目立つこともなかった階層社会に住む人々とそれ以外という二極分化が立ち現れている。

むしろ、三位一体改革による義務教育費の補助金全廃は、結果として自治体間の競争を生むことになり、優秀な子を集める地域、学校とそうではないものに別れていくであろう。
そして文化的資産を持つ子どもたちは、ますます上位として顕在化し、下位の中での差別化争いを高みの見物するという構造になる。

戦わずして勝つ人々の出現。

子どものころから体に染み込ませてきた文化的資産を持つものとそうではないものとの差は、ちょっとやそっとの時間では埋まらない。

日本の均質化した社会がもたらした弊害への反動という浄化作用。
実のところ、こうした文化資産をもつエリートの出現を肯定したい気持ちもある。
例えば、あまたの傑作とよばれる絵画も音楽も、富の過剰が生んだことは歴史が証明している。

しかし、階層社会がいいとはどうしても思えない。

階層社会とは、個人の努力ではどうにもならない身も蓋もない社会のことでもある。
生まれた瞬間に、すでに勝負が決まっているというのは、おもしろい社会とは思えない。

なぜなら、自助努力によって変移し流動する社会からのみ、活力が生まれるのだから。

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