「新しさ」に飼いならされて

「新しさ」に飼いならされて

前回は、新製品がなくなるという“妄想”を書きました。新旧含めて膨大な数の製品が、横並びになっていくというフラットな状況を妄想して、そこでは「選ぶ」ことが最大の課題になるのではないかと考えました。また、ソーシャルネットワークなどでのコミュニケーションを通じて比較検討することが「選ぶ」ことの最良の方法になるのだろうなと。

そんな妄想世界から見ると、新製品のニュースに込められている「新しさ」というのはなんだろうかと、「新しさ」を批判的に見たくなります。つまり「新しさ」のメッセージとは欲しい気持ちを掻き立てるためのものでしかなかった。そういうふうに、「新しさ」の内幕があからさまに見えてきてしまうのです。

また、「新しさ」は製品の利点を比較検討することへは導かないので、「新しさ」をもとに選ぶと、コレ欲しい!という気持ちのところで判断は停止してしまう。と言うよりも、欲しい気持ちのその先に考えを進めないように判断は停止させられているのかもしれない、とも思えてくるのです。

まったくヘンな世界です(妄想の世界ですからね^^;)。これから買い物をしたいと思っている立場からすると、「新しさ」よりも、製品の良さについていろいろと考えたい気持ちがあります。マーケティングが送りこんでくる「新しさ」よりも、たとえば製品の開発者や愛用者の声を聞いてみたい。新しいかどうかということよりも、良いものかどうかの方が重要なんだという当たり前のことを前提にして選びたいのです。「新しさ」に飼いならされていた自分から、選べる人に、そういう人に私はなりたい… というあたりで、ようやく妄想世界の夢から目が覚めました。

新しモノ好きとしては、新製品登場のニュースで掻き立てられる、ちょっと腰の浮いたようなソワソワ感。そのソワソワ感をワクワク感に換えてしまいたくなるジリジリした渇望… こうして踊らされている楽しみというのもないとは言えないのですが、この先いつまでそれが楽しめるのか、と自問する今日この頃です。