変わらぬ原発問題、中国の反日デモ、オスプレイの配備開始など、人間が巻き起こすことのみならず、異常気象など、不安の多い事象が続きます。
そんな不安のなか、多くの人々の心が荒み、いろいろなことが見えてきます。
先日フェイスブックで私が管理人を務める原発関連のグループで、それまで沈黙していたお友達の方が初めてコメントを投稿してくれました。
多くのファンを持っている方が「私も声を上げたい」と発言してくれたのです。
しかし、その投稿に引用されたジャーナリストに対し、ある方が「そのジャーナリストは眉唾ものだ」というコメントをしてきました。
たたみかけるように否定的なコメントをされたそのお友達は「私のようなものが発言するべきでなかった。すみませんでした。」
とコメントし、グループを脱退していきました。
私は「とても残念に思う」とコメントを残し、他のお友達も何人かそのようなことを書き込んだところ、そのコメントをした方も非常に攻撃的なコメントを残した後にグループを脱退。ご自身のウォールに「あのグループにいるのは時間の無駄」と公開されていました。
同じ指向性を持ちながらもコミュニケーションのすり合わせができず、連帯できず、最終的には敵対していく。
遠い昔から人間は同じことを繰り返し続けてきたのだろう、そう思います。
人の意見は十人十色であることは当然のことで、それがないほうが逆におかしい。
しかし、それを大前提として、人の意見に同調する、批判するにしても、目的が同じ方向なのであればまずはコミュニケーションが続くようにやりとりをすることが重要だと思います。
特に原発の話に関してはそうでなくてはならない、それくらいに思います。
なぜなら、私達がこの世を去っても、放射能は残り、子子孫孫に至るまで影響を残すからです。
うねりは止まることはありません。気がついた人たちが声を上げるようになってきたから。
しかし今度はさらに心の中に大きな器を用意して「繋がっていく」ためのコミュニケーションを私達が学ぶ、そういうところに来ているのではないかと感じます。