第228回 あの日にむけて①

あの日までもう1カ月となりました。あの日皆さんはどこにいましたか?何をしていましたか?
私はあの日めったにいかない東京八重洲の大丸のエスカレーターにいました。
気付くと左右に大きく揺れている。金曜の午後、混雑していた1階フロアへ降り立ったまさにその時、本震が襲いました。
「キャー」という女性の声に後ろを振り返ると、エスカレーターを降りていた複数の女性たちがヒールのままエスカレーターを走り降りようとしていました。
店内に天井からつるされた厚いガラスが大きく揺れ、混み合った店内はパニックを想像させました。

そこから徒歩で夜通し歩き、8時間をかけて横浜の自宅に帰りついたのが午前2時。
緊急事態に私は興奮し、横浜までの道々の風景を携帯で撮ってはフェイスブックにあげながら歩いていました。
しかし夜11時ごろ、食事のために立ちよった中華料理屋のテレビで炎に包まれる気仙沼の映像を見て愕然としました。
私がいい気に旧東海道の写真などを撮っているあいだに、2万人を超える人が亡くなっていたのです。言葉をなくし、浮かれていた自分に猛省しました。

その後5月から妻と参加した神奈川のボランティアを通じて、自分の時間の殆どを被災地復興に捧げている多くの方々と知り合うことができました。
地元横浜市金沢区にある南部市場のメンバーが支援している町が壊滅した女川で生き残った若いメンバーにも知り合うことができました。

その女川の彼らがあの日への想いを胸に、ある祭りを今神奈川のメンバーと進めています。
それは3月11日の翌週18日(日)に予定されている「女川復興人まつり(仮称)」。
その祭りでは、津波の到達点をスタート地点に、高台に設置した「復興の鐘」」を鳴らすために若いメンバーが競う、という企画があるそうです。
町を捨てずに立ちあがる彼ら若いメンバーが競い合い高台に駆け上がり「復興の鐘」を鳴らす。。
今から想像するだけでも胸が熱くなります。

この祭りを神奈川からサポートするボランティア参加者の募集を神奈川のボランティアステーションにお願いに行き、協力頂けることが決まりました。
17日(土)の深夜に横浜を出発、18日祭りの運営を手伝い、現地旅館の大広間で地元のメンバーと語らいながら夜を明かし、翌19日(月)の朝にむこうを立つというスケジュールです。詳細はまたここでお知らせしていきます。
「忘れてしまわれるのが一番つらい」何度も聞いたこの言葉を胸に、一人でも多くの人と一緒に、その鐘を聞きたいと思っています。

このように各地で「あの日にむけて」プロジェクトが各所で進んでいると思いますが、隣の横須賀でも有志メンバーによる素晴らしいイベントが企画されています。
次回はこの取り組みについてお知らせしていこうと思います。


 ”ハッピーバースデイ311 ” 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA