蒸し器から湯気が出ている。キッチンに立つ妻が、コンロの火加減を気にしている。その仕草を見て、ふと母のことを思い出した。
母は、あまり料理が得意ではなかった。家業の時計店を、父と切り盛りしていた。専業主婦のように、料理に手間暇をかけている時間が無かったのだろう。そもそも、家族で食事を共にすることが難しい。お客様が来店すると、父か母が食卓を立つ。こうして、バタバタとした食事となることが多い。だから、普段はあまり手のかからない簡単がものが食卓に並んだ。
そんな中で、強く心に残っているのが”茶碗蒸し”だ。母が作ってくれた”茶碗蒸し”には、かまぼこ、糸こんにゃく、栗、みつば、鶏肉、海老、椎茸など具が多く、そしてちょっと甘かった。
思えば、”茶碗蒸し”を作ってくれる日は、雨や雪のときが多かった。きっと来客が少なく、時間に余裕あったのだろう。だから、蒸し器からの湯気を見るとなんだか今でも、とてもウキウキして嬉しい気分になる。
いろいろな出来事の中で、食事に纏わる思い出は殊の外、多い。食べるという行為は、脳と身体とに直接連動しているからではないか。多くの生き物は生命を維持するために食べる。しかし、その中で人間だけが食べた時々の思い出を記憶として蓄積させている。
食事は、生命維持のための養分摂取だけの行為ではない。だから、一食一食が愛おしいし、大切にしたい。それは、決して高価なものを口にするということではなく、誰と(一人か二人か多数か)、どんな所で、どんな気分で、食するのかということを。
歳を重ねて、分かったことの一つである。