年に何度か、気の合う仲間と食事会を設けている。先日は、根岸線山手にある街中華の店で、その前は子安にある創作ビストロ店で、そして次回は、蒲田の裏路地にあるベトナム料理店での集まりを予定している。
よくよく考えてみれば、この仲間は趣味も年齢も仕事上での利害も関係ない。会って食べて飲み、他愛もないことを話しているだけである。一番の共通項は、おそらくお互いに”許せる(許し合える)”という気持ちの波長が合うのだろう。だから、不愉快にならないし、騒がしくも感じない。いやむしろ、この仲間に加わって円卓を囲んでいることが、なんとも心地よい。
この食事会の仲間とは別にもう一つ、大切にしているつながりがある。それは、趣味のトライアスロンの練習会やレースでの時間を共にしている仲間たちである。この仲間たちもお互いに”許せる(許し合える)”という周波数が合っているのだろう。
人は何をもって幸せだと感じるのか? 僕自身に照らし合わせてみると、それが恋愛の時もあったし、家族との関係の時も、仕事の成功で感じた時もあった。まさしく、人生の春夏秋冬、その時々で変化してきた。そして、いまは「誰とつながっているか」が、いちばん大切な価値だと感じている。
なにが正解なのか、さっぱり分からない時代だから、自分を取り囲む正論や常識が圧となり迫ってきて息苦しくもある。もはや、幸せを他人に決めてもらおうなど誰も思っていないし、そんなことは自明の理である。人の欲や気分は変化する。大きくて、なんでもあることが幸せだった時代もあったが、いまでは、小さくとも必要なものが必要なだけあることのほうが、幸せだと思うようにもなった。
捉え方、立ち位置が違えば感じ方も当然変わる。チャップリンはこう言っている。曰く「人生は近くで見ると悲劇だけれども、遠くから見れば喜劇である」。目の前には嫌なことや絶望で溢れているけれど、それも数年後に振り返れば、「どうして、あんなことで悩んでいたのだろう」と思うことがほとんどだ。だから、そんな時には、いまいまの悩みに寄りすぎず、少し引いてみる。そして俯瞰して観た時、自分の傍らにいてくれた人が誰かをしっかりと記憶しておきたい。おそらく、人生において一番の宝物は、傍らにいる人とつながっているということ。まさしく、その感触と実感ではないか。
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