第1091号『心の壺の奥底に沈んでいた記憶』

時々、心の壺の奥底に沈んでいた記憶が蘇ることがある。過去の行動や決断が違えば今どうなっていただろう、そんな妄想のなかで遊んでみるのも一興だ。

大学3年の夏、デザイン史の研究者になることを諦めた。恩師、柏木博先生の弟子として、3年間書生のように過ごしたが、師の膨大な読書量と圧倒的な研究課題への取り組みを日々間近で見るにつけ、僕にはとうてい出来ないことだと自覚したからだ。

秋、校内で講演会が開催された。講師は日大芸術学部OBの杉山登志。売れっ子のCM映像作家だった。お話は、レナウンと資生堂のCMはいかにして生まれたか。学友のT君は、CMの世界に行きたいと話していた。彼から、日本天然色映画社の杉山登志と、電通映画社でダーバンのCMを担当していた松尾真吾の二人のOBの名前をよく聞いていた。電通映画社には、後に映画監督としてもその才能を遺憾なく発揮した大林宣彦も在籍していた。T君に誘われて講演会に参加した。講演を聞き、映像の世界に興味をもった。そして、ぼんやりとではあるが、映画かCMの世界で仕事をしてみたいと思った。

当時の就職活動は4年生の春からのスタート。随分とのんびりしたものだった。ただこの年、オイルショックの影響で就職は厳しいものに変わっていた。僕は恩師の柏木博の紹介で美術系専門学校の講師の口を紹介されていたが、他に当てがあるわけでもないのに辞退した。そして、学校に来ていた電通映画社の求人募集を見つけ受験した。一次試験は受験動機のレポート提出、二次試験は銀座にあった電通本社最上階ホールでの筆記試験とショートストーリーの作文、三次試験は面接と続いた。これで結果ができるのかと思いきや、夏休みの2週間ほぼ十日間にわたる長期採用試験という四次試験の最終関門が待っていた。

夏休みが始まってすぐ、四次試験を通過した受験者が、首都高速道を挟んで銀座と築地の間にあった電通興産ビルに集結させられた。北海道東北エリア、関東エリア、中部関西エリア、四国九州エリアとそれぞれから選ばれた8名。翌日から、楽しくも過酷な就活戦争が始まった。

月曜日から金曜日の13時からはじまり17時まで。内容は、特別講師の講座。例えば、小林亜星のCM音楽論。小林亜星はTVドラマ、「寺内貫太郎一家」の頑固オヤジ役で有名だが、1976年に日本レコード大賞を受賞した「北の宿から」の作曲家でもあり、「レナウンワンサカ娘」「日立の樹」「セキスイハウスの歌」など、当時日本で最もCM音楽を作っていた作曲家でもあった。そして翌日には、代表作「モチモチの木」で知られる日本を代表するアニメーション作家、岡本忠成の講座も受けた。彼のコマ撮り撮影の手法はリポビタンDでキャップがくるくると回るCMにも活かされていた。そして別な日には電通本社から、数名のクリエーターや営業マーケティング担当の方々が講師として登壇された。この他に、お題が設定(例えば、パブロンの風邪薬の30秒CM)され、そのCM絵コンテ出しと、雑感レポートの提出は毎回課せられた。

この2週間のわたる試験で最も過酷だったのは、途中退場を言い渡されるというルールがあったことだ。いまなら絶対アウトである。一週間を過ぎたころから、一緒に参加していた受験生の一人がいない。そこで彼は落ちたということである。こうして、イカゲームのように脱落者が一人ひとりと姿を消していった。そして、最後の講義までたどり着いたのは4名。しかし、ここで終わりではなかった。結果から言えば、僕は落ちた。数日後、この四次試験を運営管理していた担当者から、長文のお手紙をいただいた。なぜ合格に至らなかったかということや、クリエーターとしての僕の強みと弱みについても書かれていた。この後、高熱に襲われたように全身がだるくなり、しばらく立ち直れなかった。

数日が過ぎ、身体も回復した夏の昼下がり、当時西荻窪にあった映画館で、映画好きには評価の高かった日活ロマンポルノ『マル秘色情めす市場』田中登監督作品を観た。絶望と閉塞で出来ているような街、大阪西成。ここを舞台に、それでもここで生きるしか無い人々の様を、まるでドキュメンタリーのように活写した映画だった。観終わって、落ち込んでいた僕の気分は随分と軽やかなものに変わっていた。

映画を観終わって、隣の喫茶店「ポエム」でアイスコーヒーを飲みながら入店してきた女性と、ふと目があった。その顔は紛れもなく、いま観たばかりの映画の主演女優、芹明香さんだった。この時、アイスコーヒーのコースターにサインを書いていただいたのだが、残念ながらこのサインは紛失した。そして、ここから数日後、大学の掲示板で秋に日活の採用試験があることを知り、受験し、入社が決まった。これは、作り話ではない。このあたりの話は、また別の機会に。

いまとなってはどうでもいいことではあるが、もしも、電通映画社に入っていら・・・と。ともあれ、少なくともあの夏の採用試験での2週間にわたる特訓講義で学んだ知見は、僕にとってのアイデア出しとその方法の原点になっていることは間違いない。

【付録】今年3月にファンサイト有限会社の取締役に就任した次男、川村勇気のブログです。これから隔週でブログ『ファンランドへようこそ』 を配信しました。ご高覧いただければ幸甚です。

『ファンランドへようこそ』 #5 言語化をあきらめない
ファンランドへようこそ。ファンサイト有限会社、取締役の川村勇気です。

いま、ちょっとしたロゴ制作の案件を進めており、先日からデザイナーさんと打ち合わせをしています。

https://note.com/yukikawamura0407/n/n89ba759ebf95?sub_rt=share_pb&fbclid=IwY2xjawLcN9xleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETF0NEFwc0lIODVFTk5UWVo2AR6g_V0YNa-3eSpszapcPdJNJt9jD2yCkEOFtTFpjcWM1llZYfPymq3M_w430A_aem_juUWffKecodw0DwloKsohw

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