第1107号『友に成る』

数は少ないが友がいる。70年以上も生きてきて、数名。妻には、友だち基準が厳しすぎると言われるが、僕にとっては十分すぎるくらいだと思ってきた。

先日、古くからの知人と食事を共にした。思いのほか話も弾み(あれ、彼ってこんな奴だったんだという発見もあった)、そして、僕もこれまで口にしたことのない事柄まであれこれと彼に話をした。そして気づいた。彼は単なる知人ではなく、大切な友なんだと。

友に成る。この成るというニュアンスを分解すれば、ものが新たに現れる。あるいは、前の状態から別の状態(将棋の歩の駒が金の駒に成るよう)に移るといった感じである。では、どんなことで友と感じたのか。それは、「作り話」をしている自分がいることに気づいたからだ。

ジャック・ラカン(20世紀を代表するフランスの哲学者、精神科医)の論文集『エクリ』によれば、「記憶」とは必ずしも過去の真実とは限らない。あらゆる自分についての言葉がそうであるように、断片的には真実を含んでいるとしても本質的には「作り話」でしかないと。なるほど、この説には僕も思い当たる節がある。

どういうことかといえば、会話をしている聞き手に対して僕が過去にあった出来事を話すのは、「相手」に自分がどんな人間であるかを理解してもらい、認めてもらうことができそうだと思えた時である。別の言い方をするなら「自分がどんな人間であるか」の告白は「自分をどんな人間と思って欲しいか」というベクトルで話される。

つまり、無意識の襞に封印された記憶を解き放つと、そこに立ち現れるのは過去ではなく、自分がこれからなりたい未来を。しかも、そのことをすでになされた過去のこととして語っているのだ。ずいぶんとご都合主義的な物言いだが、この立ち位置を許容することができる関係であれば、間違いなくこれからも、いろいろあれど、希望に輝き、高揚感に包まれた会話が交わされるだろう。

柔らかな心を持つ幸せな老後のためにも、これからも友だちが増えることを願っている。ともあれ、新たな友ができたことは喜ばしいことである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA