前々回分けて書きたいといっていた「わかものろん」ですが、あまり肩肘はらずに気がむいたときの不定期連載にしようと思います。
筑紫哲也さんはその遺作「若き友人たちへ」(集英社新書)の中に巷のわかものの中で多用され、流行語にすらなった「KY」について触れています。
筑紫さんは著書の中でこの言葉を「最悪だと思っており」またこの言葉のもつ「脅迫的なところが最も気に入らない」と語っています。
「空気を読め、さもないとお前は時代遅れだぞ、仲間外れだぞ、とおどしている。そうでなくとも『命令型』でよかった日本語を『懇願型』の婉曲話法に変えていくほど心優しい若者たちが、この同調努力にどう耐えられるのだろうか」と筑紫さんいわく「お節介な心配をしている」と。
確かに私が若かった頃よりもその同調努力を強要するような脅迫的な響きが確かにこの「KY」にはありますね。
筑紫さんはこの言葉に象徴される傾向が、日本という国が65年前に集結した国家としての最大の失敗を招いた原因なのだと語っています。
これだけネットによって情報のやりとりが可能になったにも関わらず、逆に皆孤立し、その反動で「皆一緒」を求め、かつ「外れているやつは悪だ」的な発想になっているとしたら、それはそれで切ない話だなあと思うわけです。
小学校と中学校に通う私の姪っ子の友達との付き合い方などを聞いていると、関係構築に苦労しているのだなあ、と感じます。それを会うたびに私たち家族に事細かに話してくれるのです。
幸い彼女たちはそれを乗り越えて、友達とも良好な関係を築いているようですが、私としては引き続き彼女たちには「本音の付き合いがあってなんぼのもんだよ」とちゃんと伝えていきたいと思います。ま、こんなお節介自体が若者からオジサンたちが煙たがられる原因なのかもしれないですけどね。