朝の番組だった。詩人の高橋順子さんが出ていた。夫で作家の車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)さんが亡くなって10年が経ったことを。そして、彼にまつわる幾つかのエピソードを語っていた。つられるように、僕も車谷さんに初めてお会いした日のことを思い出した。
新規に受注した旅の冊子の取材(ご夫婦で世界一周の船旅をした体験談)で、初めてお会いした。取材当日、東京大学の裏手、本郷の細い路地の突き当たりにあるご自宅へ、ライターとカメラマンを伴い訪ねた。
車谷さんが『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞した作家であることは知っていたが、読んだことはなかった。この取材の後、小説も読み、映画『赤目四十八瀧心中未遂』荒戸源次郎監督作品も観た。
旧い日本家屋、玄関の引き戸をガラガラと開け「こんにちは」と声を掛けた。すると、玄関脇の部屋から「どうぞ上がって」と声が返ってきた。
框から部屋へ入ると、細身で坊主頭の小柄な身体ではあるが、眼光鋭い初老の男が待っていた。佇まいそのものが作家然としていてる。それが、車谷さんだった。気圧され少し身構えた。話し始めはぽつりぽつりとしていたが、10分もすると滔々とした語り口へと変わった。そして、その中身に聞き入ってしまうほど面白い。
例えば、直木賞受賞にいたるまでのライバルに対する怨念や嫉妬から、真夜中、木に藁人形を五寸釘で打ち付けたことや。20代のころ雑誌社の賞を得て作家を目指していたが、30歳で作家になることを諦め、郷里兵庫播磨に帰り、そこから10年近く関西の料理場を転々としながら、焼き鳥の串打ちなど様々な下働きをしていたこと。そして、ある日、繋がりのあった編集者から再度小説を書くことを強く薦められる。これをきっかけに、車谷さんは作家になることを再び決意したという。
その時、古道具屋でドス(小刀)を購入し、その刃を研ぎ直し荷物の下にいれ上京した。それは、作家になれなかった時、割腹して死ぬ覚悟のためだったという。どれも、にわかには信じられないが、これこそが私小説作家たる所以と思わずにいらない話しばかりであった。
朝日新聞で連載していた読者のお悩み相談コーナー「悩みのるつぼ」での車谷さんの問答である。「教師をしているが、自分でも情動を抑えることができなくなるほど没入してしまう女子生徒がいる。情動のまま行くべきか、留まるべきか」という質問者。それに対する車谷さんの答え、「あなたの場合、まだ人生が始まっていないのです。破綻して、職業も名誉も家庭も失った時、はじめて人間とは何かということが見える。あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよい」と。
そして、こう結んだ。「阿呆になることが一番よい。あなたは小利口な人です」と。死を覚悟し、阿呆になるほどにのめり込んで創作に没頭する。車谷さんが輝いていたのは、自らにこの姿勢があったからこそだと思った。合掌