3月11日です。あの日から5年が経過しました。
みなさんはあの日どこにいましたか?何をしていましたか?
私は5年前、友人と当時めったに行かない東京駅にいました。
打合せを終え、これもめったに行かない(というかほぼ初めて)八重洲の大丸百貨店で封筒を買い、1階へと降りるエレベーターの上で地震に遭遇しました。
「あれ?揺れてる??」と気づいたその瞬間、まさに1階に到達した直後に「ドカン」と揺れが来ました。
百貨店の1階に天井から吊り下げてある大きなガラスがグラグラと揺れ、私の後ろから降りてきた女性たちが「キャー」と叫びながら駆け下りてきました。
思えば、あれ以上の揺れが来たら、おそらくエスカレーターで転び、将棋倒しになっていたことでしょう。
それからはご存知の通りのパニック。電車が停まり、震源はどこだ・・・と皆がざわめくなか、相次ぐ余震が連発で発生。
構内のテレビで千葉のコンビナートが火事になった映像が流れ、やがて港に波が押し寄せ、堤防を越え・・・
そこまで見て、私はメールで繋がり、当時青山で仕事だった妻と連絡を取り合いながら合流しようと思ったわけですが、ここまで見て分かるように、その時に何が起きているかを全く把握していませんでした。
興奮していた私は「これは災害に対する自分への試練だ」と、横浜まで歩いて帰ることを決めました。
まだ東北の津波の状況も知らず高揚した気分で「昔の飛脚のようだ」くらいに思いながら、歩き続けました。
夜になり、鶴見まで休み休み来た中で開いていた中華料理屋でテレビを見て、愕然としたのを今でもはっきり覚えています。
気仙沼の街が炎に包まれて燃え続けている映像でした。「冗談だろう????」
夜中の2時、痛む足で家にたどり着きました。妻は幸運なことに、中目黒でマンガ喫茶に避難し泊まっていました。
翌朝電車が動き、ようやく妻も帰宅することができましたが、その後はみなさんもご存知のような非常事態の日々が始まったのです。そして福島原発の爆発事故が起こりました。
あの日をきっかけに人生が変わった、というのは俗っぽい言い方で好きではありませんが、私のなかであの日まで封印していたものが解き放たれたのは確かだと思います。
そして5年が経過。
どん底から東北は立ち上がり、復興してきました。
しかし、福島だけはなにも変わっていない。10万人以上が避難を強いられ、未だ故郷に帰ることはできません。
みなさん、ご存知でしょうか。
5年を経った今日でも、この国は「原子力非常事態宣言の解除すらされていない」ことを。
その状態のなか、今でも1000万ベクレル/時の放射性物質が放出され続け、海には汚染水が流され続け、そして8000ベクレル/キロの瓦礫や土を詰め込んだフレコンバックが、かつては美しかった福島の至る所に溢れかえっていることを。
その状態で安倍首相は「完全にコントロールされている」と原発再稼動を推し進めていることを。
そして先日再稼働をした通常のウランの20万倍の危険性をもつMOX燃料で発電する高浜原発が、再稼働の瞬間に非常事態のアラームが出て緊急停止し、そして裁判で停止の判決が出されたことを。
子供の甲状腺がんはこの5年で116人も増えていることを。「原発関連死」と認定され、事故後に亡くなった方が1638人もいることを。
厳密にいえば私はこれは事故ではなく、「事件」だと思っています。
人類が未だに体験したことのない、この事故に対する理屈や理性はあの日を境に崩壊しました。
ただ毎年、この日だけに祈りを捧げてくるような5年間ではありませんでした。
この5年間、今の日本を考えない日はありませんでした。
亡くなった多くの方々に対して祈りを捧げながら、5年という区切りを改めて考え、また歩き出そうと思います。