花も実もない! Marketing One Hit Shot

2011年10月06日第214回『自分が消され書き換えられる市場の到来』

▼ドラマ「IS」のもつ予感

9月になりTV番組も様変わりしていくのが通例です。かつてはナイターを軸に編成が行なわれていたことがこうした編成になっていたと思われますが、現在はどうなのでしょうか?
とくに今年は様々な出来事が突発し編成も通念とは変ったような気がしますが・・・。
そうは言ってもメディアは世間を写す鏡、そこでの現象には硬軟取り混ぜてやはり気になります。
そんな中、愛をテーマとした「メロドラマ」が放映中です。
とくに気になっているのは、「IS」。インターセクスという重いテーマが、それに悩む青春前期の高校生を通じて描かれているドラマで、ある意味、特殊で普遍性に乏しい題材だけにどのような展開が繰り広げられるのか、興味深く見ている次第です。
 障害を題材にしたドラマと言えば「ラストフレンズ」です。上野樹里が演じる性同一障害の女性が現代の孤独を象徴する役柄として話題を集めたのは未だ強く心に残っています。また愛する相手を傷つけることでしか男女の「愛」を確証しえない倒錯した愛のありようも印象的でした。

▼愛の牢獄 

「愛」というコトバの牢獄につながれた若者達の、それぞれの愛の欲動の実現を求めながら水が掌から逃れるに掴めないいらだちを、シェアハウスという舞台で藻掻きつつ寄り添っていくやるせない愛のカタチ。「今を生きる若者たち、それぞれの男・女だけでない多様な愛のかたち」のキャッチコピーのもと、ウタダヒカル「ほどこうとするたびに、離れられなくなっていく」という歌と斬新な映像により、生きにくさを実感している若者の心を掴み、うなぎ登りの視聴率を獲得したことは記憶に新しいことでしょう。
そしていま、 3:11の被災に直面して、私たち社会は一見他者への愛に目覚めたようにも思われます。
しかし、本当でしょうか?

▼Next  ITつながり市場?

 今回の災害にあっては、私たちはマスメディアに割振られた「よき市民」と言う幻想の役割を演じて居るにすぎないのかもしれません。9:11では「テロとの戦い」に人間らしさを譲り渡しました。これは忌まわしい記憶です。9:11は衝撃的なテロの恐怖を情報化して「テロと戦い」に市民権を与え、二者選択の論理で、他者を切り捨て利己愛に徹する誘いであったような気がします。
「聖戦」は敵味方反論できない非理性的な環境を創り上げました。
これにITなど先端情報テクノロジーが協力し在りもしない不安を振りまきました。
この度の大震災も同様です。原発も含めてこの度の災害は、すでに進行していた病理を赤裸々にしています。繋がり、人情、ドナーなど、他を思う気持ちと好意は大切ですが、それは「個人であることを抹消する恐れ」にも繋がりかねません。
そしてまた、クラウドを基盤とするIT技術や情報テクノロジーは、つねに「私」と言う唯一性を消そうとしています。ツイッター、FACEBOOK、での「つながり」でほんとうに幸せを実感できますか?
これら新技術は、「私」を分類し、クラスター化し「私たち」に変えています。蓄積された情報はいくつかのワードで細分化・保存され、最後には「私たち」の・・・と言う枕詞で世代化され、歴史化され「私」とは切り離されます。
20世紀は、社会学者川本三郎さんではありませんが、私たちの暮しから縁、家族、家庭、コトバ、風景、町並を奪ってきました。そしてこの収奪の流れは止まることはありません。
自己愛=ナルシズムの市場化を志向すると思われる「マズローの欲求5段階説」では、今や欲求は「自己実現」の段階に在り、そのための表現メディアが開発され消費され尽くしてきています。そして「自己実現」も終章に向かいつつあります。
ラストフレンズではそれは「シェハウス」と言うプライベートの希薄化した空間と「携帯」と言う繋がりメディアが消費の対象でした。そしてそこでのライフスタイルは仲間や友人であること当時に「共にあること」と「共にあった」ことへの記憶だった。極めて独断的な物言いですが・・・。

▼自分の消去と書き換え

こうした点では、ISでは特徴的な消費対象としてのお膳立てはなにもありません。
敢えて言えば「生命」テクノロジー。(その狙いは「私」の市場化と過去の痕跡の抹消と自分史さらには社会史の書き換えではないか?と思います。)
これは脱情報時代以降の資本が目指す次なる方向のような気がします。そしてこうした動向は、整形、petit美容、過剰なファッション、AKB48などに見られるアンドロイドのようなステロタイプ美など、例は既に数多く揃ってきています。
このドラマ「IS」」は両性具有という性的な障害を持つ少女たちの、大人への旅立ちを描いたコミック作家「六花チヨ」の新人賞獲得作品のTVドラマ化です。
現在7回目の「IS」では、お人形のような過剰ファッションをまとう少女(剛力彩芽・・・発達不全のスリムな姿態と屈折した彼女の表情はたまりません!・・。)と男言葉を使う少女(福田沙紀・・・男っぽい肩幅と初々しい少女らしいうなじのアンバランスにしびれます・・・。)とのそれぞれの相克で物語が展開されています。(終回は9月19日のようでが)

▼「普通」「らしさ」の牢獄

 前者は母親の強い支配のもとに悩み、自己からの逃走を考える少女であり、後者は、家族のガードに護られつつ、しかし社会の現実にぶつかりISを「当たり前」として受け入れられるか、を悩む少女。そこで問われるのは「自分が何もでもない曖昧な存在」として宿命を負わされた2人の少女達の異質性に苦しみつつ、偏見と戦い自己にこだわり生きることの大切さの主張の行く末でしょう。そのことは「オトコでもオンナでもない」少女達が、「自分の性は自分で選びたい」と決める少女達の主張から窺われます。
「生きて行く」こととは?「本当とは何なのか?」脆弱な・当たり前、・普通と言うバランスとその幻想の中で、生きてきた私たちにとって「本源的な私」とは何か、が改めて問われてきそうです。
ISの安直?な手段として」「医療」=テクノロジーによる解決は、その市場性においてはともかくも、「人間であること」のための手段としてはほど遠い・・・。
いずれにしろ「医療の市場化と人間」という課題を先取りしたドラマとしても、また、「愛の再生」としても本源的なナルシズムに自己のIDを賭けていこうとする、かつてない新機軸なドラマISの視点に私は注目しています。
・・・いうまでもないことですが、自分のIDは他者との関わりの中でしかあり得ません。そして自分を愛せないことは、他人を愛することも出来ないことでもあります。それは言って見れば主人公である少女たちの「私」であること、「私」にこだわることの愛の本能とも言える直感で生得されるものと思います。

 ・・・出来れば視聴率や視聴者反応に左右されず頑張って欲しいデス!

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執筆者

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宇田 一夫

ファンサイト有限会社 顧問/コミュニケーションプロデューサー

1939年3月生まれ。 早稲田大学第一文学部史学科西洋史卒。
1962年株式会社博報堂、株式会社日東エイジェンシーなどを経て、株式会社エイムス設立。アカウント・プランナーとして「コミュニケーション&マーケティング」を課題に各種キャンペーン・プロジェクトを企画・プロデュース。
2005年愛知EXPO中央アジア共同館(ザ・グレート・シルクロード)プランナー
東洋美術専門学校視覚伝達学科講師

【賞】国際見本市、日経新聞・日経産業新聞・日経流通新聞・ショッピング他などで受賞

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