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第203回『ゼログラウンド、そしてゼロライフへ』

 1000年に一度と言われるほどの大災害が東日本を襲いました。
まさに想定外の天災でした。それに加えて原発事故、これは天災と言うよりは人災かも知れませんが、いずれにしてもダブルパンチ、これをどのように乗り切るか、私たちすべての取り組むべき課題です。
序ですが、この原稿は、計画停電が伝えられる中で作成しています。使用しているツールは単三電池で動く「ポメラ」です。

▼日常の崩壊
 自然の前には人間の営みはいかにもろいか!を、この災害は実感させました。大なり小なりこの影響は昨日までの「日常」や「当たり前」を大きく突き崩したことは間違いないようです。9:11のいわゆる「ゼログラウンド」が世界の政治の分水嶺とすれば、今回の不幸は、日本の社会にとって分水嶺となるかもしれません。
 そうは思いつつも大きな「変化」に直面して改めて抱かざるを得ない懸念です。
それは私たちの「文化」に不変的に根ざしている「出る杭は打たれる」と言う日本人に染みついた主張や異質の考えを嫌悪する心情です。
この心情は江戸時代の100年近くの鎖国と行き場のない閉鎖的な精神空間で培われたと言う説もあります。
世界では今回の災害に際しての被災者、日本人のモラルの高さが評価されていますが、このことを手放しで優れた「国民力」としてよろこべるでしょうか。

▼耐える、素直であることの美学?
 今回、日本在住の外国の人々が一斉に日本を離れていきました。
危険への対処であることは間違いありませんが、同時に、彼らの行動の裏には「政府」の情報について疑って掛るという「常識」があるのだそうです。
 原発に関しては日本政府が「安全」を叫べば叫ぶほど逆に「不信 」を増幅させ国外避難へと向かわせたと知人の外国人から聞かされました。
 不信を是とするのは問題ですが、自己の判断や生き方までも他人や権威に委ねてしまうのもは決していいことではありません。
他国の人の話を聞いて「なるほど」と行き場のない私たちと広い大陸に生きる人々の「違い」をいまさらながらに実感した次第です。
こう考えると「耐える」「大人しい」「素直」も考えものかもしれません。

▼怒りを込めて振り返れ
 少し暮らしが落ち着き「復興」が推進されるとき、私たちはどのような「復興」を目指すのでしょうか?
災害から10日過ぎて気になるのは「節電」です。周りの空気は「欲しがりません、元に戻るまでは?」です。
とくに感じるのが「マスコミ」。どこも同じ報道姿勢であり「節電」を呼びかけています。
疑えば「東電」のお先棒を担ぎ電気の配給を有利にして貰おうとの腹があるのか?と下衆の私は勘繰りたくもなります。
 マスコミはこれまでの報道姿勢に反省はないのでしょうか?またメディアが創り上げた「豊かさ」幻想や「ライフスタイル」への自省はないのでしょうか?
時代のオピニオンリーダーを自負する人々は問題への処方箋を持っているのでしょうか?
私たちの「知りたい」は山ほどあるというのに答えは扇情的な情報しかないように思えてなりません。
 原発の災害は過剰な消費のもたらした遠因であるとも考えられます。
節電の街を歩いて見ましたが、果たしてつい1週間前まで私たちが享受していた煌々とした明かりの下での便利で豊かな暮らしが「正当」であったのか?疑問を抱きました。
明るさは美しさでしょうか?闇や暗さは文化の遅れでしょうか?
むしろ陰翳のない奇妙なフラットな世界に私たちは無自覚に馴染み過ぎていたのではないか?とも思えます。

▼復元ではなくゼロベースからのイノベーション
 復興は昨日までの暮らしの「復元」でしょうか?私はそうは思いません。
アメリカ型の石油をがぶ飲みにする生活が「豊かさ」に繋がるとはもはや思えないからです。同時にエネルギーに支配され他人に暮らしを丸ごと依存する時代の終わりをも予感するからです。
 マスコミは被害をドラマティックに報道することに終始しています。しかし惨事への眼差しがマスコミビジネス優先させるエンタメであっては困ります。
政府の応対の悪さ、東電の無能ぶりを嗤うのは簡単です。また被災者へのお為ごかしの同情も否定はしません。災害や困窮した方々の悲歎は絵になり感動を呼ぶことは否定しません。
しかし「起こったことは起こったことして、それではどうするのか?」、議論を戦わせ、そこへ人々の意見を集約さるジャーナリストとしての自覚はないものでしょうか?
とりわけ役割が低下しつつある新聞や雑誌などの紙媒体は尚更でしょう。
原発を例にとっても・権威の出してくる情報の丸呑み報道です。
原発にはそのスタート時期から論争がありました。しかし、その後こうした論争は終止符が打たれいつしか原発が当然と言う風潮となりました。
ヒステリックな反対は困りますが、プロの視点からの冷静な意見が交換されてもいいのではないか?それを伝えるのは「社会の木鐸」・・・旧いですね!?の役目ではないでしょうか?

 今回の災害は変化の潮目をさらに加速させると思われます。
 かつて英国では「怒りを込めて振り返れ」と言うドラマを題材にした映画がありました。そして「怒れる世代」が話題になったことを記憶しています。テーマは「日常への怒り、そこから逃れようとする自身への苦悩と怒り」だったと思います。

今回の災害は「過剰がもたらした負」を私たちに思い至らしてくれます。そして過剰の日常がもたらす退廃とそれを直視したくない精神への反省です。
 今日までの暮らしが正答なのか?別の「豊かさ」への選択はないのか?
私たちは自身を含め「怒りを込めて振り返り」、出る杭として打たれる覚悟で声を上げてモノと心の両面で変革へ動く必要はありはしないでしょうか?
 
 復興の名の下に「利権屋」が蠢動しています。こうした輩が復活するのはゴメンです。
願わくは従来の暮らしの「復元」ではなく「イノベーション」を指向する復興であって欲しいと切に思います。

あ;また揺れが来ました。皆さん、大地の揺れは恐ろしいですが、時代には多いに揺さぶりをかけましょう!

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