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第145回『バットマンの最新作「ダークナイト」を観る』

 コミックには本来毒があります。こうした毒は弱者の本音から生まれてくるものと思われますが、しかし、最近の我が国でのコミックブームでは、毒といえばせいぜいセックスや不倫が限界毒、体制が嫌う怖い毒づくりへの挑戦は、まったく陰を潜めています。そんなわけで某首相など、コミックファンとして名乗っても、大衆への理解者?として受けるのでしょう。
こうした我が国の批判精神が衰弱した体制順応または迎合横溢のコミック文化の現状を嘲笑うが如く登場したのが、バットマンの最新作「ダークナイト」です。

 このシリーズは1989年から97年にかけ、計4本作られてきているそうですが、この映画は、渡辺謙さんが登場した「バットマンビギンズ」の続編。しかし、バットマンのルーツをテーマとしたややノスタルジックな出生ストリーの前回に比べて趣が異なります。
それは何よりも圧倒的な毒々しい反体制的な反市民的とも取れる「やばい」メッセージ性に溢れていることでしょう。

 この映画、日本国内の封切館での上映は、9月中旬で終了し、思ったほど話題とはなっていませんが、全米では7月に公開され、オープニング3日間の興収が1億5841万ドルと、『スパイダーマン3』を超え歴代トップの滑り出し。8月7日現在、トータルの興収で4億4000万ドルを超え、歴代3位にまで上り詰めているとのこと(因みに1位は『タイタニック』、2位は『スター・ウォーズ』)で娯楽映画としても最高に楽しめます。
 
 詳細については省くとして、今回のシリーズの特徴は、ゴッサム・シティに跳梁するかの「ジョーカー」が主人公であるかのような作りであることでしょう。
ご承知のように「ジョーカー」は、バットマンのライバルで、ピエロの顔を持つ特異なキャラ。彼の登場するシリーズでは必ずシニックな批判が打ち出されていますが、とりわけ今回は、その批判の毒が強くなっていると思われます。
 
 「ジョーカー」が、主張するメッセージはとはなんでしょうか?
 ひとつはヒーローを不可欠とし、常にヒーロー=ホワイトナイトを消費し続ける市場民主主義への批判です。別のいい方をすれば劇場型社会の危機についての警告とも言えます。
 もうひとつは正義のもつ矛盾です。正義を行えば行うほど悪を増殖させるという正義の論理のパラドックス、さらには正義が具備する偽善性への皮肉です。

 これらをを熟知している「ジョーカー」は、思う限りの悪を実践します。その結果、バットマンは、恋人や悪と戦う親友、パートナーなど大切なすべてを失うのですが、しかし、憎しみや恨みによってバットマンは、「ジョーカー」を裁くことができません。そればかりか正義を建前とする市民社会の安定を考え、完全な正義の士ホワイトナイトという「幻想」をでっち上げる罪さえも犯します。つまりは民主主義を機能させるための必要悪としてヒーローが犯した罪を隠蔽し、自分が背負うことになるのです。
まさにバットマンは題名の「ダークナイト」(黒い騎士)へと落ちていきます。

この陰鬱な娯楽映画の背景には、恐らく9:11以降の「アメリカ」に対しての不満、為政者が唱える正義への疑問、強いアメリカへの幻滅などが、大衆に深く広がってきているアメリカの現実があることは憶測されます。
 
 あの悲劇から7年、歴史の転回点となったテロへの戦いと、それを駆り立てて、市民をヒーローとして利用するブッシュ政権と日本を含む同盟国の為政者は、まさしく「ジョーカー」がコントロールする悪。
 「テロとの戦い」が世界規模でのテロの増殖につながり、この世界を巻き込んだこの「正義のスローガン」の裏に、血をむさぼる市場主義の巨悪の存在が見えてきつつある時代だからこそ、この映画のもつ毒に溢れたメッセージ性は重くのしかかります。

 かつては闇の中を軽々と飛んで退場するいつものバットマンとは異なって、傷つきよろめきながら闇の小路に消えていくバットマン。そのラストシーンは何ともむなしく弱々しい印象でした。
 白い騎士、黒い騎士が悪に汚染し無力化した後に「ジョーカー」を破るヒーローはいったいどこにいるのでしょうか?
 ゴッサム・シティにはもはや希望がないのでしょうか?
幸いにもハリウッド映画は、人々を絶望のままでは置かないのが通例です。
当然最終的には悪への勝利の方程式を暗示しています。それは何か?
答えはこの映画を観てのお楽しみでしょう?

 序でながらこの映画を観たのは偶然にも9.11でした。

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