東京駅構内で偶然、一枚の幻想的な風景写真を視た。
その写真は、イギリス人写真技師フェリックス・ベアトが1865~1866年ころ撮影した愛宕山から見た江戸の街のパノラマである。(江戸開府400年イベントとして展示されていた)
はじめはなんだろと覗き見ていたが、そのあとしばらく凝視し動けなくなった。
そこに写し出された光景は黒々と広がる瓦屋根、白い土塀、そして木々と中庭のある家々が遮るものなく海まで果てしなく続いていた。
わずか140年前、いま私たちの目の前に展開している東京の景観とまるで違う街がこの同じ土地の上に存在していたのだ。
それは普段、深層部に埋もれ、現われることのない地底都市が突如現われたような驚きにも似ていた。
木と土と草だけで構成された都市。
こんな都市を21世紀のいま作ったら凄いだろうな、そんなことを漠然と考えながら眺めていた。
なぜ、これほどまでの街並みが可能になったのだろうか?
棚橋正博の『江戸の道楽』(講談社選書メチエ)によれば、現存する庭園とかつての庭園の痕跡を江戸地図の上で重ね合わせてみると、緑地帯はおそらく江戸全体の9割近くになる。
それを支えていたのは大名から庶民にいたるまで「道楽」としての「園芸」であったという。
このことが世界でも類を見ないほどの庭園都市「江戸」を可能にしていたというのである。
思いはカタチとして体現する。
したがって文化としての意志が伝播したとき景観もまた、その例外ではない。
「かつてある文化が共通のタイプの家をつくってきたことは、集団に自らを認識する手がかりをあたえ、個人が文化に加わるひとつの暗黙のきっかけであった。」と多木浩二は『生きられた家』で言及している。
ここで、家を都市と読み替えてみるとそのことがより明瞭になる。
いま、私たちは個人が文化に加わるなんらかの手立てを持っているだろうか?
果たして、わたし達は自分達の居場所に自分達の意志を持って関与しているであろうか?
目前に広がる新丸の内ビルヂングのガラスと鉄の建造物を見ながら、庭園都市「江戸」からみれば丸の内や汐留や六本木に乱立するそれらはかつて湿地帯であった江戸に立つ幻の水晶宮のようにも見えた。