第145号『なりたい自分になる方法』

ロスアンゼルスからの帰り、機内で映画を観た。
「パルプフィクション」では、聖書を朗読する殺し屋役で、その圧倒的な存在感をみせたサミエルL・ジャクソン主演の「Coach Carter」である。
1999年、カリフォルニアで実際起きた出来事をベースに作られた作品だ。

学生時代、バスケットボールの優秀選手として活躍し、いまは地元でスポーツ店を経営している、その彼にバスケットボールも、お勉強もイマイチなハイスクールのコーチとしての就任依頼がくる。

黒人が多数を占め、卒業率が50%、大学進学率に至っては、わずか数%という惨状の高校である。
たとえ、いくら身体能力に秀でていても日本と違い学業も、ある一定の水準に達していなければスポーツ推薦として大学進学はできない。

かくして、生徒たちとの激しいぶつかり合いの果てに、スポーツも学業も勝ち取り、大学進学までも獲得させていくサクセスストーリーである。

ありがちなストーリーではある。
しかし、その成功を獲得させる方法に納得した。

生徒にバスケが好きなら、勉強もちゃんとやって、できれば好きなことで食えるようになったほうがいいだろう。
だから高校中退してヤクの売人になって刑務所に入るより、大学を出てきちんと稼げるようになったほうがいいということを具体的に、リスクとリターンを提示していく方法に感服した。

いま、私たちの国では大人も子どもも、好きなことを育てる手立ても、好きなことを具現化する方法も持ちえていない。
趣味、嗜好の範囲で語るのならまだしも、自分の好きなことを一生の糧にしていく生き方は、大概これまで、一般の規範から外れた変わり者との烙印を押され、括られてきた。

ことほど左様に、何かを好きになることはそれほど簡単なことではない。

共同体として突出しない、させない。
なぜならば、それが高度成長期の日本では経済効率を最大限発揮させ、かつ、コストとのバランスを考えると、まずまずのところで多くの人がメリット享受できたからだ。

しかし、もはや、スポーツであれ、政治であれ、経済であれ、一つの価値基準に集約することは不可能だし、それが最善の方法でないことも自明である。
そして、一般論として誰もがそのことを否定はしない。
にも係わらず、国も企業も教育機関も、それ以外の方法を提示できずにいる。

見えるとおりに見ようとしないのは、党派的な人間の特徴である。
なぜならば、党派性とは一つの考えにより、利害を共有し、寄り集まっている集団のことだからだ。
例えば、巨人も自民党も、宗教も企業も教育も・・・

そこに、不安を感じるのだ。
逆説的だか、不安だから一層党派に擦り寄り、しがみ付く。

成熟した社会とは、多様であることと、公正に競争することを容認し、それを支える仕組みを持つということである。

いま僕たちに必要なのは、多様性とは何かという一般論ではなく、なりたい自分になるための具体的な方法と、不安とともに生きる知恵の提示ではないか。

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