« 2008年08月 | メイン | 2008年10月 »

2008年09月 アーカイブ

2008年09月05日

第120回 最近の若いモンは

080728_1855~0003.jpg
     「はくぼ」

同世代の人、または先輩方と時折若い人たちの話題になります。
自分自身が知らないうちにこの年ですから、古代の壁画に「最近の若いモンは・・・」という嘆き節が書いてあったというのも、全く変わっていないのだなと思いつつ、反論覚悟でまずはこんな書き方をしてみます。

最近の若い子達は・・・
①プライドだけが高い
入社面接で「ステップアップをしていきたいんです。」おいおい、入るのが先では?
あるところでは「御社はどう私を成長させてくれるのでしょうか」といったとか。
その割りにちょっと怒るとすぐ「キレて」やめちゃう。人材派遣会社の人が毎朝「さあ、仕事にいこうね」と起こしにいくのは日常茶飯事というのにはあ然。
②打たれ弱い
ちょっと厳しい質問をすると体に発疹が出たり、赤面して話せなくなってしまうとか。
アトピーの子も昔に比べて増えたような。
③欲がない
若さの特権である「とんがり」や「無鉄砲な勢い」、「野心」がない。
堅実とはまた違う、何だか小さい感じ。
④人との関係が希薄
すぐに関係を断ち切ることに慣れている。
友達の定義はある意味メルトモレベルで数多く、が基本。
でも大事なのは何よりも「友達」。だから外れることを異常に恐れる。

いろいろな方の話を聞いたデータの集積ですから、概してそんな傾向があるのは間違いないようです。
まあ、そんな私も何も分からないくせに根拠のない自信だけはあった生意気なガキでしたから、昔との違いを探すとすれば②③④でしょうか。
彼らは物心ついたときから携帯があり、インターネットがあり、卒業アルバムにはメルアドがあり。
対面のコミュニケーションがないのに、繋がることだけがこれだけ容易になっているネット社会における特徴的な傾向なのかなと思います。

かといって若い人が全てそうだなどいうつもりは毛頭なく、優秀な人は昔よりも優秀な気もするし、いかつい輩は「どうしてそこまで」というくらいにコワモテ。気合も入っている。
よくも悪くもはっきりしてきている気がします。
同じカテゴリに属する人を見つけやすくなっている分、その中で個性を際立たせることが極端になっているのかもしれませんね。

ま、そういう我々もひとくくりに「オヤジ」と呼ばれているのでしょうが、私の周りには全く昔と変わらないままの「若い」人が多い。
ほら見てみ、こんなオヤジも案外多いでしょ、と発信していけるように生きていきたいです。


2008年09月12日

第121回 難しいはなし

080909_1104~0001.JPG
  「ニヤリ」

学力調査に関して議論がされています。今日の朝日新聞に載っていました。
大阪の橋本知事を先鋒に一部の知事が結果に関して公開するべきだという意見に立ち、公開しないのであれば予算に差をつけると文科省を通じて圧力をかけているという話題ですね。
文科省は基本自主公表は容認しているとのこと。
皆さんはどちらでしょうか?

読んでいて「これは難しいなー」と思ったのですが、重要な問題だと思うのでつい書きはじめてしまいました。
全国の学力調査結果の公表をめぐっては、時には適法、時には違法という過去に何度も紆余曲折の歴史があったのですね。
コメンテーターの上越教育大の佐久間教授によると「調査に公費を使ったのだから、公表の声があるのは当然、しかし公表することにより格差や差別を助長する恐れがある。議論すべきは知る権利をとるか、多くの子に不利益をもたらすのを防ぐために公共の利益を重視するか」ということでした。

なるほど、これは確かに難しい。

格差や差別はもう時代の流れとして避けられないのかもしれません。しかし教育委員会をはじめ閉鎖的、官僚的な組織とは、大分県の例があるように癒着やゆがんだ権力構造が生まれる要素もある。実際社会を知らない先生が招く問題も多いしね。
そんな中宇都宮市は市教委の決定でウェブで結果の公開をしており、他県の教委から問い合わせが来ているそうです。

情報の開示というのは個人的にはベターだと思うし、ウェブの世界ではそれがよりよい効果を生んでいる例も実際ありますが、やたらめったら公開されてもこんどはプライバシーや権利の問題があるわけですね。

考えれば考えるほど頭がいたい。

どうであれ、結局最後は人々が良識をもってしっかりと議論し、判断できるようになるしかならないので、情報の考え方は社会の成熟度が問われる永遠のテーマだと思います。
さて、皆さんはどうでしょうか?

2008年09月19日

第122回 津波

080915_1413~0001.jpg
  「リフト」

リーマン・ブラザーズの破綻をはじめとした金融危機は、過去50年来最悪の状況だと書かれています。50年来、なんて一世代前の話なのだから、現実的にはほとんど今までない状況が起こっているというわけですね。

リーマンだけでなく、メリルリンチやAIGなど、金融に詳しくない私でも知っているような大企業がいかに瀕死の状況に瀕しているかは連日目の当たりにしますが、バブルの頃にはあまりフォーカスされず、それがはじけてから右往左往する、どうしようもなくなってからメディアが騒ぎ立てるという様子を見て、私が大学生の頃に日本で起きた不動産バブルと何も変わっていないなと感じました。

もちろん、それを予測していた方も大勢いるとは思いますが、問題は「直接利害のないその他多数の人々の中に生まれる不安」だと思います。
それが社会全体の空気を形成していくわけだし、そこに実際の危機が訪れることでさらに大きな影響として生活に跳ね返るということですね。今はあくまでも「アメリカはかなりやばい」くらいで、本格的な大波の到来に日本全体が飲み込まれる前段階だというように感じます。昨日みのもんたがおばちゃん相手に「リーマンショックとは?」とかやってましたから。

日本はどう対処するか、ということに問題に対し信頼できる元バンカーの方は『アメリカ追随でずっと来てしまった日本は政治に対する「骨」がない。』といっていました。日本が本来誇るべきものづくりの力などを政治がないがしろにし、アメリカ主導の政策に終始した結果、骨抜きになっているというのがその方の見解でした。
バブルの崩壊を経験し、頑張ってきた日本にとって、太平洋を渡ってきている「津波」を乗り越える正念場なんですね。しかし舵取りを任せる人がいるのかどうか、個人的に見る限りではなんとも不安といわざるを得ません。

2008年09月26日

第123回 ベタ

080925_2146~0001.jpg
        「ミラー」

昨今では批判の的にもなっている企業の「猫も杓子もエコ・エコ」キャンペーンの氾濫ですが、私としてはそれほど否定的には考えていません。

それはどんなかたちであれ、マジョリティを形成する人たちが意識をしなければ、所詮理想論に終わってしまいかねない地球温暖化の現象については変化を望むことが難しいと思うからです。
今までエコの「エ」の字も知らなかったオバチャンでも「それはエコじゃない」とか使うようになったことを考えても、効果があったのではないかと思います。オバチャンはおそらくそこまで知らなければ今日も資源の無駄使いをしていたかもしれないのだから。
それは私たちが生業としているウェブサイトでも同じことで、クオリティ・コントロールは当たり前ですが、それと同じくらいとにもかくにも「存在」を知られることが重要ではないかと思うからです。

多くの人間は自分との直接的な関連性がない場合、知らない意見などに関して懐疑的・無意識的な傾向が非常に強く見られると思います。
なぜ私がこんなことを書くのかというと、それは別に私が優秀な人間だ、とかいうことではなく、自分が昔から多くの人と共有すべきではないかと感じていたことが周りの人にとってみれば「どうでもいいこと」と受け取られる経験を幾度となく感じてきていることによります。
しかしそれはよくも悪くも自分の個性を形成するのに役立ちましたし、その「ベタ」な思いこそが「自分は他とは違うんだ」というエネルギーにもなっている気がします。

人間にしてもウェブにしてもサービスにしても商品にしても同じで、その認知を広め、多くの人の支持を集める為には最初は「ベタ」なアプローチがあってもいいんじゃないか、どうやら私はそう思う「ベタ」なタイプの人間のようです。

ファンサイト