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2010年03月 アーカイブ

2010年03月04日

第178回「現代の秋」

▼道徳的見世物・・・悪人は殺せ?!

 死刑制度に対する意識を探る内閣府の昨年の世論調査で、死刑を容認する人の割合が過去最高の85・6%となった(朝日新聞2月7日朝刊)そうです。
死刑を容認する人の増加の理由は・廃止すれば・被害者やその家族の気持ちが収まらない・凶悪犯は命で償うべきだ・廃止すれば凶悪犯が増えるなどが上位に並んでいるそうです。こうした死刑容認については、賛成、反対はありますが、気になるのは10年間で急速に7%も増加していることです。

▼緊張時代の要請

  国際社会では死刑廃止の流れが定着しているといわれていますが、日本の世論は、まったく逆なのはなぜでしょうか?
 私はこの記事を読みながらふと思ったのは、首切りや晒し首、市中引き回しなど江戸時代の犯罪者に対する処断です。
また、西洋社会での火炙りの刑やギロチンなどの公開処刑です。いずれにしろ世論や市民感情に応える「見せ物」、庶民や市民は恐い物見たさや憂さ晴らしで処刑は人気のイベントでした。
 生活の苦しさ、思い通りにならないもどかしさを悪人のせいにして癒しを得る心理。こうした精神的なカタルシスを求める風潮は、情報社会の実現とそれがもたらしている「緊張」により、いっそうの拍車が掛かってきています。
こうした流れをさらに煽るのが世論を代表すると自負するマスコミです。

▼犯人探しの時代

 2010年になってマスコミの話題は、鳩山、小沢さんの政治資金問題、朝青龍の引退などに終始しているように感じます。
 極論かもしれませんが、死刑容認の増加も、こうした悪人探しやスケープゴートづくりと同根ではないかと思います。
悪人を抹殺し、諸悪の根源と思われる事象を潰したり弾劾していけば、世の中はよくなり、私たちは幸福になれるのでしょうか?

▼秋の時代の到来

 歴史家ホイジンガーは名著「中世の秋」で中世の時代精神を「生活はけばけばしく多彩で、まるで血の匂いとバラの香りを一緒に吸い込むようようだった。人々はさながら子供の頭をもった巨人のように地獄の不安と無邪気ないたずら心、残忍極まる冷酷と涙もろい情けの心の間を行ったりきたりした」(兼岩正夫・里見元一郎訳)と描いています。
これはまさに今の時代を描いているかのようです。言ってみれば「現代は秋」。それは欲求不満や不安がもたらす「緊張」をひたすら解消すべく狂奔する時代でもあります。

▼脱カタルシス

 膨大の欲望の胃袋と幼児のような頭の人々の増大した社会。すべてが性急に自分に都合のよい結果を求めています。そして消費はこの欲望のカタルシスを願う流れの真直中にある代表的な行動です。
 成熟社会とは、実はモノが飽和化している時代ではなく、欲求不満を解消する方法の飽和であり、不満をそらすサービスやモノが限界に来ている社会ではないでしょうか?
こうした事実は、人々は肌身で知り始めているようです。
 20世紀が創り上げた●大量生産←→万人平等な消費システムが、安定性を失って、行き詰まり、あらゆる暮らしで不信が膨れあがらせている現在の時代・状況にあって、マーケティングの役割はなんでしょうか?
 それは長期的な視野を持ちにくい時代精神にあっては儚い希望かもしれませんが、「残酷と情け深さとを往来する人々の心」の、情け深さ側へと向かう心を支援する制度や仕組みを開発・発明し、新しい生き方を提案していくこと。 
 そのためにはまだまだ暮らしに残っている健全な心・・思いやり、気遣い、絆など・・のこまめな改修と評価から始めることのように思います。

2010年03月18日

第179回『陰徳陽報』

 「トヨタは陰徳です」。かつてトヨタの副社長、張 富士夫氏に企業風土について取材させて頂いた折に、同氏が言われたのが「陰徳」。
陰徳とは「陰徳有る者は必ず陽徳あり」で、すなわち「人に知られずに善い行いをすれば、必ずよい報いを受ける」と言う意味です。
准(え)南子(なんじ)の人間訓からの出典だと記憶しています。
流石に剣道で培った精神の持ち主で古典にも素養があり、氏の居住まいには古武士の風格があったことはいまでも忘れられません。
氏は、アメリカでのトヨタの成功を導いた方で、まさにトヨタのものづくり精神「カイゼン」を世界に敷衍させた優れたリーダーのお一人です。

▼なぜトヨタが・・・?
 しかし、一方「陰徳」については、それを流れに任せずに陽徳へと結びつけていくことも、これからのトヨタにとっては大切とも氏は言われました。
このことは、アメリカを中心に起こっている「トヨタパッシング」報道を見るにつけ、思い出されます。
 陰徳が徳として成立するのは、血縁・地縁・社縁など「縁」でのつながりが基本の社会の存在が前提と成りましょう。しかし、こうした「縁」とは別の価値で成り立っている社会では、「人に知られない」ことは何もしていないことと同じかも知れません。
 ましてや市場原理に委ね、「勝者がすべてをとる」ことを許した競争社会にあっては、かつての人々をコントロールしていた精神的な基盤や制度は見事に崩れ去っています。そして人々は「自制」をかなぐり捨てて、膨れあがる欲求のままに、利己的な主張を行わねばならないと生きていけないのです。
「陰徳」の社会は、終わったのです。氏の思いは、そうした時代の予感でもあったと思います。

▼PRの弱さ
 今回のトヨタ事件には、いろいろな見方はあると思いますが、私的には、陰徳志向の日本企業のPR力不足、またはPRについての理解の浅さが根っこにはあるのでは?と思っています。
このことは企業だけの問題ではありません。国家、政府、行政機関、自治体、その他あらゆるところに及ぶ大問題でしょう。
情報を取り扱うメディア、マスコミも同様です。
 情報の公開と透明性は、いま話題の一つですが、これはPRの「基本のキ」。しかし、私の浅薄な経験では、多くのPRは、「すべてが臭い物には蓋」を目的としてきています。
そして「人の噂も75日」として悪い噂が消え去るのを待ち、一方マスコミその他での噂が紙面を飾らないように配慮するのがPRマンの務めのようにも思えます。
トヨタには流石にトップ企業だけあってPRに携わる広報部には数多くのスタッフが配置されています。
しかし、敢えて言えば頭数が居ればいいと言うことではありません。

▼組織と社会の間に立つ勇気
 PRについては、私には忘れられない人Y氏がいます。
かつて新人の時、さる石油化学企業の仕事に携わりました。そこでお会いしたY氏には、今後の広告マンとしての心得のほとんどをご指導頂きました。もはや鬼籍に入られていますが、その方を思うにつけ、どれ程の恩返しができたのか内心忸怩たる思いです。
 当時、石油化学業界は、川崎の喘息、四日市の大気汚染など公害、さらには千葉県君津沿岸のコンビナートなどでマスコミや市民団体などからの指弾のターゲットでした。
こうしたことから起きるマイナス情報は、ことをスムーズに進めたい経営からは知られたくない「事実」。しかし、その方は可能な限りマスコミなどにマイナス情報であれ、積極的に公開していました。その結果、社内での評価は、芳しいどころではなく「気狂い」と陰口叩かれたほどです。
語り口も激しく、性格も「切れやすい」人でしたから誤解もされがちでした。
私も若造のくせに生意気でしたから、よく口論もしました。
しかし、振り返るにこの方の身を捨てての動きは、結局はマスコミ記者の好感を得て、情報への信頼性をどれほど高めたことか、図り知れません。
 常に正論を言えばいいわけではありませんが、ご都合主義だけでは人も社会も認めません。
 トヨタで言えば、官僚主義がはびこりすぎて組織と社会にモノを言う人材が不足しているのかもしれません。その結果、大衆消費者社会の基盤である社会との対話への努力が希薄となったことが、トヨタを苦しめている現象の一つの遠因と言えないでしょうか?
「技術は完璧」ではあり得ません。この永遠の事実をトヨタはもっと勇気を持って社会に向け主張すべきです。
「トヨタには人材がいない」と張氏。今にして思えば、真実の思いだったのかも知れません。

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