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2009年10月 アーカイブ

2009年10月08日

第168回『AKINAにぞっこん』

AKINA・・・もちろん中森明菜のことです。
実は年甲斐もなく、彼女のデビュー曲「スローモーション」以来のファン。繊細な歌唱とこだわりで独自の世界を打ち出してきた彼女は、いまや44歳、ますます女として、歌手として磨きが掛かってきました。とくに本年7月に出たCD「歌姫シリーズ」を聴いてからいっそうその思いを強く感じています。
この「歌姫」はカバーアルバムシリーズで、カバーに取り組んで以来今日まで、トータルで100万枚を突破しているとかで、新境地の魅力もあって人気のほどを伺わせます。
カーバーアルバムは、昔から数多くありますが、近年は空前のカバーアルバムラッシュ、この動向に先鞭をつけたのも彼女だと思います。

良い曲は時代を超えて人々の心に届くものであることはいまさらですが、しかし、明菜の歌姫はシリーズには一時代愛されたアルバムのアレンジや新工夫さらには歌手の個性に依存したリメイク、またフォークジャンボリーでかつての人気歌手が自分の持ち歌を紹介する、いわば懐旧の情を基盤としたそれとは決定的に違う、というのが私の評価です。

▼新:「いちご白書をもう一度」

例えばアルバムに採用された「いちご白書をもういちど」です。高度成長期に向かう時代にあって時代に真に向き合うことなく、情緒的な反抗にとどまり戦いを自らの放棄した生き方上手な若者達の自嘲を歌ったこの名曲ですが、明菜の歌は、主張もせず燃焼することなく無事をまっとうして、いまの社会からリタイヤしていく団塊世代のいいしれぬ悔悟と恥ずかしさ、同時にそれら不条理へのあたたかい眼差しが微妙に案配されたトーンとなって心に染みてきます。
何を失ったのだろうか?何が豊かさなのか?これまでの人生以上に生きるだろう団塊世代にとっては甘い思い出ではなく、苦い慚愧を呼び起こすような見事な歌唱です。
懐かしの曲は、「歌姫」により世代を一巡した心との出会いを提供し時代を超える新曲となったのかもしれません。、

▼「楽しくない、必死過ぎて楽しんでいられない・・・。」

今夏放映されたNHK番組「Songs」でのインタビューに歌への取り組みについてこう話していました
「私は頂いたお仕事を最後までこなす、最後までみんなに喜んでもらうものに仕上げるだけ。一人でも多く裏切らないようにする、すべてを考えて心を込めて歌っていくのはつらく、プレッシャーに押しつぶされそう。出来ればやりたくない・・・。とても楽しんでいられない。でも明菜よかったよ!と言ってもらってまた取り組んでしまう・・」
おそらく大学生活やましてや学園紛争など経験したことのない彼女が「いちご白書」にこれほどに深い感動をプラスしていることは驚きですが、上記のコメントを聞くに及び歌手としての成長、人生を見つめた覚悟、人柄の優しさから滲んできたものかもしれないと納得しました。

▼考えること、追い詰めること・・・

言うまでもなくゼロ成長の時代です。そこではモデルが不在です。政権が変わったからといって世界の本質は変わるわけもありません。
ただ言えることは「今」を見つめ、手持ちの価値を大切にし、その生命を育むことではないでしょうか?
そしてもはや避けがたい事実は、進歩のための進歩、新規なもの、他人よりも多くモノを入手することは豊かさであると言う幻想は捨て、何が豊かさをもたらすのか?を自分の頭と心で探る必要にマーケターは向い合っていることです。
「歌姫」の感動は、一人の女性の歌い手が、利他を捨て愛他の心で人情の機微と敏感に反応しながらも、エンタテイメントを考え、自身の思考と表現の狭間で苦しみつつひたすらにこだわってきた結果ではないでしょうか?
以上が私の「ぞっこん」の理由です。
最近、彼女のライブコンサートは少なくマスコミへの登場もまばらです。
09年では8月の横浜でのコンサートと後は年末のディナーショーか予定されているだけのようです。
商売は大丈夫?と心配ですね。
明菜の切符は手に入るのか?ネットでもこうしたブログが目につきます。
情報を絞る、露出を抑えるというのは、商品ライフを延ばし、価値を増大させるテクニックであることは承知ですが、CDだけではなく、「ナマ」にも触れたいというのも隠れファンとしての本音です。
そろそろ焦らしは止めませんか?

2009年10月22日

第169回『逆転の妄想』

▼世間を敵にした建設推進派

今年後半の話題は八ッ場ダムの建設中止ではないでしょうか?
ダム建設の中止を明言した前原国交相と地元住民との意見交換会は「中止ありき」では話にならないとする地元民の考えで実現しませんでした。
57年間紆余曲折のあったと言うこの問題は、当然のことながら根が深いことでしょうから、門外漢が口を挟む余地はないかもしれません。

しかし、TV映像でみる限り、申し訳ないとは思いますが、ダム建設を推進したいとする地元の人々は「地域エゴ」の固まり、目先の利益で他はどうでもいいと言う自己主義をにじませているようで、ひたすら対話を求めていた大臣に比べどうも役柄が悪いと思ったのは私だけでしょうか?また役者ぶりも地元の顔役風で利権にしがみついた欲の亡者とも映りました。

人の気持ちは同じようで、ダムのある長野原町の役場には一晩で4000通のメールが殺到しその8割が建設推進を求める地元に対して批判的な内容とか(朝日2009/09/26)。
風は地元の利権代表者にとってはどうやら逆風のようです。

▼ダム湖観光になぜしがみつくのか?

不思議なことは「生活再建」=「ダム早期完成」と言う、私にはまったく理解できない発想です。
またすでに3200億円が投入されているから、中止するのは無駄、だから事業予算の残金を使いきって事業を完成すべきだという考えも奇妙ではありませんか?
仮にこの考えに基づきダムが完成したら「生活は再建」されるのでしょうか?
例えば群馬県の生活再建案「ダム湖のほとりの温泉街」。さらには「ダイエットバレー構想」などの観光振興策です。
なんともどうしようもない策でこんなお粗末な策で成熟した観光市場に地歩を得ようとするのはあまりにいい加減と言わざるを得ないでしょう。

同じ群馬県で完成したダムに移転した猿ヶ京温泉を見ればダム湖と温泉街がセットとなった観光開発がほとんど魅力となっていないことはあきらかなようです。
要は長年のもやもやが取れただけで、気分は落ち着くかもしれませんが、この長野原一帯の価値が増したとは思えません。

▼イメージの観光マーケティングを

そもそも歴史ある観光地は衰退を続けてきており、このダムの底に沈む予定の川原の湯温泉も例外ではありません。
うがった見方をすればダム開発を機会に親方日の丸の利を得たり、立ち退き料をせしめて貧乏から一抜けするというのがホントのところでは・・・?!
生活再建が観光によるものとすれば、地元は温泉とかダムとか、もはやどこにでもある観光資源依存しない、開発を考えねばならないでしょう。
 
方向性は大きくは4つです。ひとつは「ソーシャルマーケティング」、第二は「非営利のマーケティング」、さらに「イメージのマーケティング」そして「地理的マーケティング」です。
このコラムで、それぞれを説明する紙数はありませんが、とりわけ大切のは「イメージのマーケティング」だと思います。

▼ダム中止は地域活性のビッグチャンス

考えてみればわかることですが、このダム中止は、この地域に大いなる資源を提供しています。
一つはダムに沈まずに済んだことです。その結果、渓谷美という景観が保全され、同時に渓谷の生態系も維持されたことです。また温泉の源泉も失わずに済みました。
この川原の湯は東京に近いこともあり文人墨客に愛された湯であり、同時に絹で栄えたこの地区の文化も受け継がれることにもなった、などです。
以上は過去の遺産的な資源の話ですが、さらに重要なことは、57年の苦悩の歴史です。そして、この騒動により一挙にこのダムの知名度が日本中に浸透したことです。そして「中止」は乱開発の愚に抗した知恵の成果かであり、環境の時代のシンボルとも成り得る、いわばこれからの観光開発のフラグシップともなりえるはずです。
9:11のNY、古くは敗戦後のヒロシマ、ドイツのホロコーストなど不謹慎の批判は承知ですが、これらの悲惨が強烈なメッセージとなって世界から人を呼んでいることは現実です。
こうした事柄と比べるべくもないですが、しかしこの地区は世界に発信できるだけのメッセージ性を孕んだのではないでしょうか?このことは「イメージのマーケティング」にとっては最高です。

今世界は、意味に飢え、新たな豊かさを求めています。マーケティングは人々の不満に応えることです。
この夏、個人的にはいくつかの東京周辺の観光地に赴きました。そこで感じるのは時代遅れの考えが、荒廃を招くか?札びらだけの開発が人心に響かず、もはや投資効果を生まない現実です。
幸い、現政権は観光に注力するそうです。八ツ場の人は、国費の導入や補助金の確保を目論むのではなく、もっと大きなソロバンで外部資源を呼び込み、世界に評価される地域振興モデルづくりこそを、目指してほしいと思います。
災いをチャンスとする逆転の発想ならぬ、妄想かもしれないですが・・・・。

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