« 2009年04月 | メイン | 2009年06月 »

2009年05月 アーカイブ

2009年05月14日

第158回『笠森お仙と広告会社』

▼クリエイティブのパワーダウンは何故?

 広告制作のクリエイティビティが昨今とみにパワーダウンしていることは衆目の一致しているところではないか、と思っています。皆さまはいかが感じておられますか?
不景気になり、広告にお金が掛けられなくなったから?、売りが求められるため創造力を発揮する余地がすくなくなった?など理由は挙げれば限りなくあると思われますが、私は思うには制作能力の基盤である情報収集力、または情報感度が鈍くなった結果も大いにあるのではと思っています。
なぜそうなったのか?この原因は制作する会社のオフィスづくりにもあるのではないでしょうか?

▼受付嬢がいつしか消えた?

 古い話で申し分けありませんが、かつての広告会社、またはクライアント企業には心惹かれる感じの良い女性が受付には必ずいて、ときによってはお茶を接待してくれていました。
そしてとりわけ若い広告マンにとっては、彼女らに接することが楽しみのひとつであったような気がします。かく言う私も恥ずかしながらその一人でした。
広告や媒体セールスであれば、たいした価値のある商談ネタがなくても、気軽に客筋に出向けましたし、とくに成長期の媒体マンなどは当座の商売は完結しているのが通常でしたから広告代理店回りをしている際に、受付嬢との雑談が格好の時間潰しとなったようです。
女性の立場からすれば、「私たちは客寄せパンダじゃないわよ」と柳眉を逆立てるかも知れませんし、また考えてみればムダな人材の配し方とも思われます。
そしていつしかこうした受付嬢は受付電話や連絡パネルに取って代わり、媒体情報のやり取りは、オンライン化。広告会社と媒体社との関係は急速にオンラインネット化されました。
そのネットでは、丁度JRの「緑の窓口」のように時間や番組の空き枠情報がやり取りされ、こうした情報ネットの整備は、媒体社と広告会社の結びつきを強化し、媒体情報収集の省力・迅速化などの効率化を促進し、併せて新規や競合への参入障壁を高める役割も果たしたのです。
その結果、情報機器ベースのマネジメントが普及し、用のない人の来訪は迷惑となり、広告代理店の事務所内部や宣伝部の担当の席に行くことは御法度になりました。つまりは情報伝達に関わる人の存在・役割が希薄になってき、官僚的な管理が普及したと言えます。

▼タワーの住人こそが一流広告・制作会社の証明?

 いまや一流と呼ばれる広告会社のほとんどは高層タワービルの上階に入居しています。そのため会社訪問には何重のセキュリティの関門を突破せねばなりません。
一流アドマンは、首にIDカードをぶら下げるのがステータスです。そんなわけでアポなしで担当に逢うことは不可能となっていることはご承知の通りです。
しかし、こうした業種は、本来情報が命です。そして情報には、文字通り情と報せがあり、またこの情報は、ファックスやメールなどのITツールのみに頼ることは充分でないことは自明でしょう。情報には同時に人に付随した、振る舞いや言葉遣いなど身体性によるソフトな側面もあります。また情報には雑多性・多元性があるために、ある人には無価値であっても人により、さらには見方によってその価値は変わるモノです。

▼情報社会の効率とはなにか?

 したがって、他人の話を小耳に挟むこと、オフィスにある空気なども大切な情報収集です。
一方、現実のオフィスづくりはセキュリティや情報漏洩など、オフィスをガードの堅い空間に閉じ込め固めることが重視され、情報交流や人のために開かれねばならないオフィスは管理に都合の良い、他者を排除するデザインの流れに価値を置くようになっています。
こうした用がないこと、時間のムダを排除する考えは生産性を上げるのに、一見、効率的に見えるかも知れませんが、一方、情報のもつ豊かさをそぎ落とし情報を資源化するための異質との出会いや複雑性、多元性などに触れる機会を自ら廃棄している気もします。
私などは先輩から教わったのは、「棄て眼」と言うことですが、それはその場では当座役に立たない情報への目配りの役割とその大切さです。

▼お仙の茶やの教訓?

 最近、江戸が人気です。そうした江戸の商法の一つに水茶屋の集客目的となった「美女」があります。
古い人には懐かしい手まり歌で有名ですよね。
彼女らは錦絵に描かれ評判となり市をなす賑わいを演出したそうです。また古い横町には「小町」なるアイドル的存在もありました。
商才のある人なら誰でも知っていることですが、賑わいがあれば商機もあります。
そこには豊富な情報や儲けネタが集まるからで、それらは皆人についてくる貴重な資源です。それを生かす、生かさぬこそ目利きの創造力でしょう。
最近、ある建築家は、「半屋外」にこだわっているそうです。
いらない塀は取り去り、ちょっとした縁側をつける工夫だけで町が気持ちよくなるからだそうです。この縁側があるだけで、人びとや自然との「ご縁」が生まれ豊かな気分で日々が送れるのでしょう。
いま広告会社の空間はご縁が生まれる空間でしょうか?
人も来ない密室で、居心地のよくないご縁を排除する貧しい囲い込み空間がクリエイティブの空間であれば、そこから生まれるクリエイティブはまた貧しく、人情の機微とはほど遠い情無しの世間様とは外れたモノとならざるを得ないでしょう。

▼人とのご縁を無視する管理姿勢

 クリエイティブのコモディティ化はクリエイターの過ごす環境と相関すると言ったら独断に過ぎるかもしれません。しかし、時間の生産性を強く意識し、大切な人からのノンバーバルな雑多情報を拒む管理の姿勢は、より踏み込んだ思考への道を阻む原因のひとつであると考えます。
私は、ウイキペディアもGoogle情報検索も否定はすべきものとは思っていませんが、こうした意識する、しないは別として囲い込まれた空間に自身を置き、自分に都合の良い情報収集だけに頼った「創造作業」は自ずと他人の枠組みに縛られることは不可避です。

 うがった言い方を敢えてすれば、広告は世情そのものであり、人情を資源化したサービスビジネスではないでしょうか?そしていまでも広告ビジネスの原点は「外」にこそあるのではないでしょうか?
広告会社よ、塔を出でて街に出よ!
広告会社はどうあればいいのか?もう一度、ご縁担ぎで、向こう横町のおいなりさんへにあるお仙の茶やのサービスを思ってみてもいいのでは?と思います。

 この意見、シャンな(超古いコトバですね)受付嬢を楽しみするデンジャラス老害と非難されるかも・・・!

2009年05月28日

第159回『賢いクリエイターからは無視される話?!』

▼クリエイターは経済を主導できるだろうか?

「クリエイティブ経済」とか「クリエイティブ・クラスの世紀」など「クリエイティブ」に期待と注目が集まっています。しかし、こうした期待や時流がカタチとなり実勢を持ってくるには正直ムリ、大きなカベがあるのではないか、と思います。
このカベとは、思うに企業側に、さらには困ったことにクリエイティブを担うクリエイターやデザイナーなど当事者にあるようです。
企業にあるカベは、さておいて問題はクリエイティブに携わる人々の中にあるカベです。

▼カベ①   他人の異見を無視することが「価値」だと思っていないか?

 極論と言われることを覚悟で申し上げると、クリエイターもしくはデザイナーと称する人々のマインドは他人からの異見を聞かないことにその特性さらには姿勢の基盤があるように思います。
それは何故か?ひとつにはアーティストとの区別が、自覚されていないこと、アーティストと呼ばれことで「他人へのサービス意識が希薄になる」こと、さらには困ったことにはこうした仕事の価値は、他者と関わりを絶つことによって「世界を持つこと」そして「その世界を純粋に表現することだ」と確信しているふしがあることです。
この思い込みは、イコール不遜に繋がりがちで、ひいては他者の意見・意見は邪魔であるのではないでしょうか?

▼カベ② 初めに自分ありき!?

 例えば、プロダクトデザイナーであれ、コミュニケーションデザイナーであれ、彼らが仕事を遂行するに当たって、自身を無にして、どれくらい市場データを読み込んでいるでしょうか?また、それをデザインにどれくらい生かしているでしょうか?
多くはまず自分の思いが先にあって、手続き上、参考にする、場合によっては、修正の目安にする程度ではないでしょうか?また、周囲も彼らの独尊を暗黙に認める流れにあります。とくに感性の時代と言われた時期にはこうした傾向が強く感性とは何かを考えず感性のあると思われているクリエイターに丸投げをしていた、または口を挟むのがマネジメントを業とする者にとって処世の智恵でもあったと言えます。こうした風潮は未熟のガキクリエイターを増殖させ、彼らのやんちゃ即クリエイティブという状況も輩出したほどです。

▼カベ③ クリエイターは「違いが判っている?」

 クリエイターたちは、自分では違いを意識しているつもりでも、実は自身の発想自体が多くの人々と同質であるため、所詮感性の差やスキルの違いでしかなくなっているのです。
私が時折参加する会議でも、デザイナーたちは表現者として参加しています。彼らに期待されているのはインパクトや大衆受けですが、これには常々疑問を抱いてきています。確かに情報過多の時代だから目立つことは必要条件ですが、それは人々の行動を誘発してこそ意味がある筈です。
ある著名な広告評論家は、「広告はバナナのたたき売りの口上」と似ており、その口上の芸が、魅力となるとか言う意味合いを述べておられました。それを否定する気はありませんが、それは広告のエンターテイメント性に偏したご意見で、クリエイティブの役割の一部でしかないと思いますし、ましてや市場の成熟・コモディティ化が進行し、WEB2.0の時代にあっては、こうした「受けを狙う考え」やその芸としての職人技は時代の要請にそぐわないとも言えます。

▼カベ④  情熱不足?

 いま市場には創造的なクリエイティブの機会はないのか?そんなことはありません。むしろ人々が不満だらけのいま、機会は腐るほどあるのではないでしょうか?
しかし、現在のマネジメントは、こうした不満を市場化することに、かつての時代ほどに情熱を持っていないようです。
またそれらを支援するクリエイター達もまた、処世に長けており、情熱不足です。ホントウはやらねばならないことはいっぱいあるのに・・・。
いまやクリエーションする人々は、市場に入って人々の生の不満を収集し、それを検証して資源化する必要があります。彼らはマーケの人以上に、不満に、社会に、世界にセンシティブに出会わなければならないのではないでしょうか?
しかし、彼らはそのためにどん欲に動いているでしょうか?また人々のホントウを知るのに素養と思いやりをどれほど持っているでしょうか? こうした知と情の下地がなければ、他人の異見は耳に入りません。ましてや儲け主義や仕事を取るなどという利己主義は論外でしょう。
クリエイターの持つべき関心は、いまや企業に与して「勝組に乗る」ことではないと思います。こうした勝ち、負けの意識ほどクリエイティブとは遠いものはないかも知れません。
一度、クリエイターは、企業から与えられた価値観を離れ、「人そのものの満足や幸福とは何か?」へと言うべき利他の考えに軸足を移して、企業の都合とは異なる異見を率直に唱える戦を企業経済社会に挑んだ方がいいのではないでしょうか?

 もちろんこうした考えにはリスクがつきものだということは承知ですが・・・。
こんな青い話、賢いクリエイターからは無視されそうですが・・・!

ファンサイト