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2008年10月 アーカイブ

2008年10月03日

第144回『それでいいのだ!』

 今夏は、思いがけなくも猛暑でした。そうした中。老骨にむち打たれて幾つかのプレゼンテーション(以下プレゼン)に参加させて頂きました。で、結果は、いずれも不成功で、ほんとうにごめんなさいです。
でも、思うのですが競合プレゼンって何でしょうね?
 
 何時の頃からか、企業は仕入れの公明性を証明するために多数業者に合い見積もりを取るようになりました。価格競争を有利に導くためで、これに関しては納得できます。
しかし、クリエイティブについての競合プレゼンは、どのような効用があるのか?長年この世界に生息している私でもいまだに違和感を持っているのですが?人間が出来ていないのですかね?

 プレゼンを考える場合、ひとつは何を伝えるのか?
もうひとつはどのように伝えるのか?と大雑把に言って2つの課題があります。
さらにプレゼンでは、企業のコミュニケーションを改善したいのか?改革したいのか?というコミュニケーションまたは市場戦略への判断が加わります。

 これは多くのコミュニケーションツールを作成する場合の基本的に抑えておかねばならない情報です。
例えばパンフレット、会社案内、サイトなどツールのリニュアルについては、以上の情報の抑え方により表現は千差万別ですし、この辺が明解ではないと当然選別するクライアント側も評価基準はバラバラとなります。
しかし、こうした方向性さえ提示されないのが現実のプレゼンです。
多くの諸兄は、クライアントからのプレゼンの際に行われる「オリエン」がいつも矛盾に充ちており、制作者にとっては確かな手がかりとならないことは当たり前の事実となっています。

 業者にはプレゼンは避けて通れません。それは営業的な課題からです。
プレゼンに参加することは営業機会を与えられることですから、まずは参加することに意義があります。しかし、長年の人間関係がある場合はいざしらず新規参入ではその企業の風土、体質、微妙のニュアンスなど判ろう筈もありません。
一方、長年の取引先でも、問題は同じです。肝心のオリエンで相手は何をしたいかが判らないからです。
 
 改善なら、問題点をお互い情報を交換して改善ポイントを修正した方が効率的です。また改革なら、改革のカベをどう乗り越えていけばいいか、お互いディスカッションするのが、ベターだという気がします。
  
一方、従来の発想を変えた鮮度の高いモノが欲しい場合もあるでしょう。しかし、それには企業内での目標が明確でないとリスクが多すぎます。例えばイメージの一新とは、過去に蓄積してきたイメージ資産を棄てることで、その際の割り切りや更新の優先順位付などが組織内でコンセンサスが得られていることが必要です。

 今回経験したプレゼンは、次のようなパタンでした。
ひとつは売り上げが低迷したため、制作チームを変えて他に求めたい(見た目を変えれば何とかなる)。
次はイメージがマンネリのようだから表現を変えたい(誰が飽きているのか不明)、
もうひとつは従来の在庫がなくなってきたので作り直したい(ついでに新しい装いが欲しい)というのがプレゼンの依頼動機でした。
 一口で言えば「変えるがための変更」で、それ以上ではないというのが私の思いです。

 こうしたプレゼンに数社のスタッフが蝟集しました。だから成功、不成功は出たとこ勝負で相手の気分任せ・・・!何とも生産性の低い話ですが、「こうしたものでっせ!」というのが大人の判断でしょう。

 ただ言えることは、プレゼンでは「他人の目は求められていない」というのが実感で、今さらながらの反省でもあります。
とりわけ組織が大きい企業ほど他人の異見は聞きたくないのが本音。
プレゼンの本音の要求は、なにか口にあった、いいものをないか?という見つくろいの依頼。
それを肝に命じた夏でした。
プレゼンって難しい!?

 でも時代は変わっていっています。
とりわけWEB2.0時代に向けて企業は余りに無策。
「それでいいのだ!」と天才バカボンのパパはいいますが・・・?

2008年10月17日

第145回『バットマンの最新作「ダークナイト」を観る』

 コミックには本来毒があります。こうした毒は弱者の本音から生まれてくるものと思われますが、しかし、最近の我が国でのコミックブームでは、毒といえばせいぜいセックスや不倫が限界毒、体制が嫌う怖い毒づくりへの挑戦は、まったく陰を潜めています。そんなわけで某首相など、コミックファンとして名乗っても、大衆への理解者?として受けるのでしょう。
こうした我が国の批判精神が衰弱した体制順応または迎合横溢のコミック文化の現状を嘲笑うが如く登場したのが、バットマンの最新作「ダークナイト」です。

 このシリーズは1989年から97年にかけ、計4本作られてきているそうですが、この映画は、渡辺謙さんが登場した「バットマンビギンズ」の続編。しかし、バットマンのルーツをテーマとしたややノスタルジックな出生ストリーの前回に比べて趣が異なります。
それは何よりも圧倒的な毒々しい反体制的な反市民的とも取れる「やばい」メッセージ性に溢れていることでしょう。

 この映画、日本国内の封切館での上映は、9月中旬で終了し、思ったほど話題とはなっていませんが、全米では7月に公開され、オープニング3日間の興収が1億5841万ドルと、『スパイダーマン3』を超え歴代トップの滑り出し。8月7日現在、トータルの興収で4億4000万ドルを超え、歴代3位にまで上り詰めているとのこと(因みに1位は『タイタニック』、2位は『スター・ウォーズ』)で娯楽映画としても最高に楽しめます。
 
 詳細については省くとして、今回のシリーズの特徴は、ゴッサム・シティに跳梁するかの「ジョーカー」が主人公であるかのような作りであることでしょう。
ご承知のように「ジョーカー」は、バットマンのライバルで、ピエロの顔を持つ特異なキャラ。彼の登場するシリーズでは必ずシニックな批判が打ち出されていますが、とりわけ今回は、その批判の毒が強くなっていると思われます。
 
 「ジョーカー」が、主張するメッセージはとはなんでしょうか?
 ひとつはヒーローを不可欠とし、常にヒーロー=ホワイトナイトを消費し続ける市場民主主義への批判です。別のいい方をすれば劇場型社会の危機についての警告とも言えます。
 もうひとつは正義のもつ矛盾です。正義を行えば行うほど悪を増殖させるという正義の論理のパラドックス、さらには正義が具備する偽善性への皮肉です。

 これらをを熟知している「ジョーカー」は、思う限りの悪を実践します。その結果、バットマンは、恋人や悪と戦う親友、パートナーなど大切なすべてを失うのですが、しかし、憎しみや恨みによってバットマンは、「ジョーカー」を裁くことができません。そればかりか正義を建前とする市民社会の安定を考え、完全な正義の士ホワイトナイトという「幻想」をでっち上げる罪さえも犯します。つまりは民主主義を機能させるための必要悪としてヒーローが犯した罪を隠蔽し、自分が背負うことになるのです。
まさにバットマンは題名の「ダークナイト」(黒い騎士)へと落ちていきます。

この陰鬱な娯楽映画の背景には、恐らく9:11以降の「アメリカ」に対しての不満、為政者が唱える正義への疑問、強いアメリカへの幻滅などが、大衆に深く広がってきているアメリカの現実があることは憶測されます。
 
 あの悲劇から7年、歴史の転回点となったテロへの戦いと、それを駆り立てて、市民をヒーローとして利用するブッシュ政権と日本を含む同盟国の為政者は、まさしく「ジョーカー」がコントロールする悪。
 「テロとの戦い」が世界規模でのテロの増殖につながり、この世界を巻き込んだこの「正義のスローガン」の裏に、血をむさぼる市場主義の巨悪の存在が見えてきつつある時代だからこそ、この映画のもつ毒に溢れたメッセージ性は重くのしかかります。

 かつては闇の中を軽々と飛んで退場するいつものバットマンとは異なって、傷つきよろめきながら闇の小路に消えていくバットマン。そのラストシーンは何ともむなしく弱々しい印象でした。
 白い騎士、黒い騎士が悪に汚染し無力化した後に「ジョーカー」を破るヒーローはいったいどこにいるのでしょうか?
 ゴッサム・シティにはもはや希望がないのでしょうか?
幸いにもハリウッド映画は、人々を絶望のままでは置かないのが通例です。
当然最終的には悪への勝利の方程式を暗示しています。それは何か?
答えはこの映画を観てのお楽しみでしょう?

 序でながらこの映画を観たのは偶然にも9.11でした。

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