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2007年11月 アーカイブ

2007年11月01日

第260号『欲望』

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【静寂】

任意のひとつとは、すべてということと同義である。

例えば、画鋲が1コ、部屋の絨毯に落ちているとする。
たちまち、その絨毯の上を歩くのが怖くなる。

最近多発している、食品にまつわる賞味期限偽装のニュースをみるにつけ、もはや任意のひとつどころではない。
また、政治家や官僚と業者の癒着と賄賂も一向に減らない。
乱暴な言い方をすれば、この事態は特殊な事例などではなく、ほぼ、おしなべて、日常茶飯事なのだろうと思えてしまう。

本来、食べ物は、有機物として有限の命あるものだ。
どう考えても大量に作り、保存することに向いているとは思えない。
なぜ、その摂理に反して過剰に生産するのか。
あるいは、なぜ、癒着や賄賂が減らないのか。

すべては、欲から発している。

欲望は本質的に模倣から始まり、連鎖する。
誰かが、食べているから自分も食べたくなる。
あるいは、他人が貰っているから自分も貰いたくなる。
そして、1つの欲望を手に入れたとたん、新しい欲望の渇望が疼く。

もともと欲望は他者の模倣であるから、際限もなくそして、満たされることもない。
だから到底、欲望では自分の心の内側を満たすことはできない。

では、僕はどうか?と自問自答してみた。
答えは「他人には他人の価値観があり、生き方がある。そして僕には僕の価値観があり、生き方がある。」
少なくとも体験的に言えば、いまのところ、そういう想いで自分の心を満たす方法しか知らない。

2007年11月08日

第261号『拘泥する』

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【柳屋の鯛焼き】

アトリエのある人形町、浜町周辺には老舗や隠れた名店が、ことのほか多い。
鯛焼きの「柳屋」、親子丼と軍鶏の「玉ひで」、居酒屋の「笹新」、焼き鳥の「鳥近」、洋食の「芳味亭」、すき焼の「日山」などなど、さながら美味いもの博覧会場の様相を呈している。

これらのお店に共通していることがある。
それは、どこも思いのほか間口が狭いということだ。

例えば「柳屋」の店頭では、鯛焼きを焼く職人が汗をかきながら、せっせっと焼いている。
しかし、どんなに頑張っても作れる量など、多寡が知れている。
したがって食べたければ、細い店内の通路から,歩道にはみ出すように列に並ぶしか方法がない。
あるいは、6時を過ぎて「笹新」のカウンターに座れたとすれば、その御仁は幸運と言う他ない。
さらに、夕方、急いでいる時は、「鳥近」のある歩道側は歩かないほうがいい。
居並ぶ人混みに、必ずや行く手を塞がれるからである。

こんな魅力ある店々がなぜ、間口を広げないのか。
それは、彼らは出来ないことを知っているからだと、僕は想像を固くしている。
「たかが、一介の鯛焼き屋、居酒屋、焼き鳥屋だけれども、良い仕事をさせてもらいますよ、だからこれ以上、間口を広げたら、美味しいものを守れなくなるよ」と。
そんな誇りに満ちた呟きが聞こえてきそうだ。

何かを守るということは、出来ることを誇示することではなく、出来ないということに拘泥することである。
それは、あたかも知性がある人とは、何かを知っているという人ではなく、何が知らないかを知っている人だということに似ているのかもしれない。

お知らせです。
新コンテンツ「ファンサイト特撰 人形町・浜町美味いもんマップ」掲載します。
http://www.fun-site.biz/map/
弊社アトリエのあるエリアは東京の下町を代表するエリアでもあります。
この、人形町と浜町周辺は頑固に自分たちの味を守り、かつ楽しめるお店が多いエリアでもあります。
さながら、味の万国博覧会場のようです。
さて、これから、1つ1つお気に入りのお店をポツポツとご紹介していきますよ。

2007年11月15日

第262号『迷子』

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【森と湖】

曇り空の日曜日、紅葉を観に皇居まで歩いた。
浜町から小伝馬町、神田を経由して皇居まで普通に歩けば、およそ1時間でたどり着く距離である。

休日のオフィス街はまるで、役者のいない映画のセットのように、物音もせず静まり返っていた。
見慣れた「東京」ではなく、なにか異空間に紛れ込んでしまったような錯覚におそわれた。

ふと、迷子になってみたいと思った。

知らない角を幾つも曲り、聞き覚えのない路地を通る。
ちょっと不安でドキドキするけれど、次の角を曲がると、どんな風景に出会えるのかとワクワクも、する。
気がつくと、まるで街はひとつの大きな森のように見えてきた。

「都市を歩いていて、目的の場所にたどり着かないことが重要だというのではない。
しかし、都市で道に迷うと、森でそうなったときと同様に経験や知識が要求される。
通りの名は、枯れた小枝の折れる音のように都市の放浪者へと語りかけ、そして、迷い込んだ都市の路地が山の谷間の表情のように、そこを歩いた放浪者の記憶を呼び起こしてくれるのだ。」
                 ヴァルター・ベンヤミン『ベルリンの幼年時代』

こうして、都市という森を彷徨いながら、歩くこと2時間。
ビルの谷間から、薄日に光るお堀の水面と、赤や黄に色づき始めた秋の森が見えてきた。

2007年11月30日

第263号『矜持』

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〈ゴール〉

先日、今年最後のレースに出た。
1年に数回、10キロほどのレースを走る。
以前なら、ろくに練習もせずに走れた距離だが、いまはそんなわけにはいかない。
フルマラソンを走るほどのトレーニングではないが、それでも週3、4回、5から10キロの距離を歩いたり、走ったりする。
それが積もり、毎月100キロほどになる。
こんな具合に、走り始めてもう20年以上になる。

なぜ走るのか、と問われることがある。
楽しくて仕方が無いというのではない。
完走した時の達成感が良いのか、と言われたこともある。
それは勿論ある。
当然のことながら、ある程度の距離、負荷をかけて移動することはキツい。
出るべきマラソン大会を自分で選び、そのレースでの目標タイムを設定し、完走を目指す。

誰にかに、唆されたのでもなければ、脅迫されたのでもない。
全ては、自分が決めたことである。
だから、日々決めた目標に向かってトレーニングを重ねる。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
残念ながら僕は間違いなく、後者に属す。
どうにも、身体を通して実感したことでなければ腑に落ちない。
例えば、自由とは自らを由とすることだと言葉として得心したのも、体を通過したずっと後に気がついたことだった。

さて、僕はなぜ走るのかと自問自答した。
気晴らしでもなければ、誰かに勝つことでも、健康のためでもない。
走り終わった後、やれることはやった、というカタチにならない模糊とした気持ち。
つまり、僕の身体を通して「矜持」を持てたか否かを見極めたいのだ。

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