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2007年10月 アーカイブ

2007年10月04日

第256号『いただきます』

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【葉っぱのおにぎり】

最近、めっきり外食が減った。
美味しくないのだ。
どこで食べても「塩っぱい、辛い、味がない」と思うことが多い。
食べてがっかりする。
だから、なるべく自炊する。
特に飲んだ翌日は、無性にご飯とみそ汁が食べたくなる。
アルコールが体を駆け巡り、そして何かが奪われ、それを補うため「ご飯とみそ汁が欲しいよ」と、体内から信号が送られてくる。

今日の材料は、米、味噌、昆布、鰹の削り節、そして野菜と豆腐を用意した。
大事な水は沖縄サンゴをろ過材のベースにした整水器(弊社のお客様アイナの「クオリ」)を通した水を使う。

まずは、米。
最近、スーパーでも籾殻付きの米が普通に置かれている。
それを備え付けの精米機で精米したものを使う。
多重構造のステンレス製の鍋に、米を3合入れ、研ぐ。
美味い飯が炊けた時は大概、真ん中が盛りあがっている。
だから、その場面をイメージして米の水加減を調節する。
そして、火にかける。

次はみそ汁。
ダシは、昆布、鰹の削り節を使う。
水から湯を沸かし、昆布、鰹の削り節から薄茶色の旨味が溶け出してくるのがみえる。
くつくつとしてきたら、昆布、鰹の削り節を引き上げ、野菜を入れる。
野菜を火に通すと、すっと透る瞬間がある。
野菜の持つエネルギーがだし汁に溶け出し、流れ込んでいくのだ。
そして、味噌をゆっくりと溶かす。
白味噌と赤味噌をその日の気分で混ぜる。
全体に味噌が解け合ったころを見計らい、豆腐を入れる。
火を強くし、グラっとしたら火を止める。
これで、出来上がりだ。

飯の炊きあがりの匂いがいい。
飯と、みそ汁をそれぞれ椀に盛り、そして、今日はひきわり納豆も用意した。

野菜、米、魚、肉、どれも食べることで体内に取り入れる。
そして、この1つ1つの食材は体のなかの細胞を刺激し、命の移し替えをしているのだ。

食をおろそかにすると、パワーが落ちる。
食をおろそかにすると、生活のリズムが崩れる。
食をおろそかにすると、仲間との良い関係が壊れる。
食を大事にすると、美味しくなる。
食を大事にすると、笑顔になる。
食を大事にすると、パワーが湧き出る。
人は食べることで生きているのだ。

では、いただきます。

2007年10月12日

第257号『あたりまえということ』

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【飛べない鳥】

ミャンマーに、いま世界の目が注がれている。
政府が招いた困窮に、僧侶と普通の市民が平和的な抗議行動を行った。
この抗議行動に対し、ミャンマー政府の対応は銃とこん棒での鎮圧だった。
そして、日本人ジャーナリストもその銃弾の犠牲となった。

イギリス、アメリカを中心として欧米各国では現軍事政権への非難を強め、国連も動いた。
しかし、日本ではアジアの一員として、近年アジアで起きた大津波や地震災害などの募金活動のような、なんとかしなければという声が聞こえてこない。
ミャンマーの民主化運動に、なにか冷めた眼差しでいる。
なぜそう感じるのだろうか、と考えた。

僕たちはいま、日常生活のなかで自由に発言したり、行動できることをあたりまえと感じている。
それは、憲法によってそのことが保証されているからだ。

そもそも、憲法の役割は国家権力に対して、主権者たる国民が身を守るための道具である。
言論の自由であれ、信仰の自由であれ、享受している基本的な人権は、人類が長年の闘いで勝ち取ってきたものである。
しかし、僕も含め多くの日本人は「国家権力から身を守る最後の手段が憲法である」という認識が薄いのではないか。

現行の日本国憲法はアメリカの独立宣言や、フランスの人権宣言のように民衆が血の購いとして、闘い勝ち取ったものではない。
占領下、アメリカから与えられものである。
だから、先達から、これこれ左様に、こうして日本は国家から自分たちを守るための権利を自分たちの手によって獲得した、という話を聞くこともなく過ぎてきた。

ミャンマーの民主化運動に、なにか冷めた眼差しでいたのは、どこかに、あてがわれた自前ではない日本国憲法に対する居住まいの悪さを感じていたからだ。
しかし、どういうカタチであれ、ミャンマーの人々の現状を見るにつけ、僕たちが享受している権利の重さを改めて受けとめ、考えるきっかけが出来た。

民主主義とは自分と違う意見を認めること。
それも、多数派が少数派に認める権利を保証する制度である。
それは、ヒューマニズムに根ざしたというよりは、合理性に合致しているからだ。
このことを端的に言及した内田樹氏の「街場の現代思想」から引用する。

〈例えば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。〉

ミャンマーの人々が、自由に行動し、発言することがあたりまえになる日がくることを心から願う。

2007年10月18日

第258号『自立するということ』

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【自立する石】

今朝、ボクシングで反則を犯した親子の謝罪会見が新聞の一面を飾っていた。
うっすらとヒゲをたくわえた男が父親で、傍らで頭を下げている少年が恐らくボクサーなのだろう。
少年は怯えているようにも見えた。

父と子の希薄な関係、家族の絆の綻びがいわれて久しい。
こんな、時代の気分の中で、個々の個性と自立を促す強い父親と、それに懸命に応えようとする子供達。
この少年の兄弟と、父とのこの一家の強い絆が、ボクシングの枠を超えて注目された。
そして、練習方法、教育方針、試合運び、全てにおいて自分たちのやり方を貫いてきたことに、驚きと賞賛を集めた。

しかし、こうした文脈でメディアが仕組み、TVに映し出されたシーンとは真逆な、自立していない親と子の姿が露呈した。

子供が大人になるには思春期のある時期、一人、迷路を彷徨う時間が必要である。
少年と少女が子供時代に別れを告げ、大人へと鍛え上げなければならないとき、親は、特に父親は無視され、避けられる。
そして、葛藤を乗り越え、子は親離れをし、自分の生きる現実を掴み獲ることができるのだ。

そこで、親にできることは、ただただ子の変貌を見守るのみである。
しかし、やがて自立した大人同士としてのあらたな親子の絆を切り結ぶことができるのだ。

この、頭を垂れ怯えているかに見える少年が自立し、再びリングに上がることが実現したとき、世界チャンピオンに挑戦する本物のボクサーがひとり誕生するだろう。

2007年10月25日

第259号『危機』

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【波に向かって】

細胞へのストレスが筋肉作りには欠かせないことを、理化学研究所のチームがアメリカの細胞生物学誌「ジャーナル・オブ・セル・バイオロジー」に発表した。
このなかで、筋肉形成には細胞ストレスが必要で、ストレスに耐えることのできた細胞が筋肉になることを突き止めた、と言及している。

今年、3月に浜町にアトリエを構えたとたんに、得意先の会社の経営状態が悪くなり契約更新ができなくなった。
さらに、ほぼ完成しかけていたプロジェクトがビジネスパートナーと信じていた会社の裏切りで崩壊した。
そんなことが幾つか続いた。

こんな時はジタバタしても始まらないことは分っている。
しかし、狭量な経営者の性なのか、ジタバタした。
走り回り、小さな仕事をかき集めた。
効率が悪く料金も安い。
(お仕事をいただいた皆様には感謝しております(^^!)
当然、スタッフへの負荷は増える。
他業界から転職して2年目と1年目の営業担当。
デザイナーもまだまだ若い。
この状態が続けば、彼らの士気が下がるのではないかと懸念した。
しかし、心配とは裏腹に皆、必死になり、一つひとつカタチにしてくれた。

危機を共有し、なんとか乗り越えようともがき、なにかを掴もうとしていた。

そして、気がつくと彼らの顔つきが明らかに変わった。
彼らはもちろん、筋肉ではない。(笑)
しかし、厳しい環境が仕事に対する、より強い意志とスキルを磨くきっかけになったことは事実だ。

「危機」という字は、「危ない」と「機会(チャンス)」で出来ている。
文字通り危ないときにこそ、機会が生まれる。
チャンスはピンチの顔をしてやってくるのだ。


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