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2007年09月 アーカイブ

2007年09月06日

第252号『Cuba/Okinawa—サルサとチャンプルー』

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【ハバナ】

日系キューバ移民をテーマにしたドキュメタリー映画『Cuba/Okinawa—サルサとチャンプルー』の試写会に行った。
監督は我が師、映画評論家の波多野哲朗氏である。
2000年に撮影開始し、2度のキューバ訪問と数回に及ぶ沖縄での撮影を経て、この度完成した。

日本人の国外移民が「海興移民」という名の下に、国策として始まったのが1924年。
飢餓による農民の口減らしと、富国強兵を目指した政府の施策として始まった。
それにしても、なんという政策だったのだろう。

初期のキューバへの移民は日本から直接やってきたのではなく、メキシコやブラジルなど中米諸国へと渡った移民が、好況だった砂糖産業に群がるようにキューバへと流れていった。
当時のキューバ移民は短期的な出稼ぎ型、季節型労働者が多く、出入りが激しかったという。
そのため、日系キューバ移民の存在は、移民史研究においても無視されてきた。
それでも、かつて百数十人もの日本人が住み、その多くが帰郷の夢を果たせず、彼の地で死んでいった。

映画の中盤で、土くれた風景の中に突如、野ざらし状態の廃墟が現れる。
映し出されたのは巨大なドーム型パノプティコン(一点監視方式)の監獄である。
このドーム型パノプティコンに隣接する獄舎に、第二次世界大戦時、キューバにいた日本人成人男子全員が収容されていた。
対戦中のアメリカやカナダでの強制収容については、しばしば話題に上ることがあるが、ここでも同じような、いや、それ以上に過酷だった過去の事実が、忘れ去れ、記憶や歴史か
ら置き去りにされていた。
日系キューバ移民は、辺境から辺境へ、底辺から底辺へと移り行ったディアポリス(故郷から隔てれた民衆)だった。
この映画を通して、これまで、全く知るすべもなかった事実の一旦を垣間みることができた。

ともすれば暗く批判的になりがちなテーマであるが、全編を通して感じるのは人間の温かさであり、繋がりの強さだった。
それはとりもなおさず、これまで誰も伝えることが出来ず、埋もれていた過去を、多くの同朋に伝えようとした監督の柔らかな眼差しと、強い想いだったのではないか。

2007年09月13日

第253号『徹底的にやり抜く』

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【ヌィーン】

先日、友人N氏のライブ・コンサートに行った。
土曜日の昼下がり、人通りもまばらな御徒町。
しかし、階段を下り、地下にあるその小さなライブハウスに入ると、なんともいえない高揚感と緊張感に溢れていた。

「クィーン」のコピーバンドを率いてのライヴ・コンサートをやる。
それが彼の高校時代からの夢だったという。
昔日の想いを達成するその日が遂にやってきた。

当日、3つのバンドが出演したが、そのトリが彼の率いる「クィーン」ならぬ、「ヌィーン」である。
圧倒的な曲目数とその再現の的確さに、往年の「クィーン」そのものを重ねた。
しかし、その技量もさることながら、振り付けからコスチュームにいたるまで、彼のフレディ・マーキュリーと「クィーン」へのオマージュに溢れた徹底ぶりに脱帽した。
そして普段、大手広告代理店に勤め、多忙を極める管理職の顔からは想像できない豹変ぶりにも驚き、楽しめた。

やるんだったら、中途半端にやらない。
この意味がどんなに素晴らしいことか、改めて理解できた。
おそらく、彼のクリエイティブの源泉も、こうした日頃の努力から生まれているのだろうと思えた。

そういえば、本家「クィーン」のメンバーの一人、ギタリストのブライアン・メイ氏が、かつて天文学者を目指し、学んでいたことをつい最近知った。

1971年、24歳のブライアン・メイ氏はロンドンのインペリアルカレッジで天体物理学の博士号取得を目指していた。
彼は惑星間物質の研究で2本の論文に名を連ねていて、1つは科学雑誌「Nature」にも掲載されているという。
しかし、ギタリストとして「クイーン」の立ち上げに加わり、アルバムが大ヒットしたことで、天文学から離れることとなってしまった。
それでも、メイ氏の天文学への興味は失われなかった。
そして、今年、30年以上の歳月を経て博士論文を完成させ、母校の口頭試問をパスした。
メイ氏は今年60歳。

やりたいことを徹底的にやり抜く。
N氏もメイ氏にも同じ匂いを感じた。

過去を懐かしむのも悪くはないが、いまを精一杯生きる。
この心意気には、これから始まる長寿社会を生きる我々にとって、具体的な戦略が詰まっているように思えた。

2007年09月20日

第254号『しあわせ』

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【朝焼け雲】


朝、流れる雲を見ていたら、ふと弟のことを思い出した。

10年前の9月、3歳年下だった弟が「脳腫瘍」で9時間に及ぶ大手術をした。
手術後、左半身の麻痺、視野狭窄そして言語機能の障害がでた。

手術前、担当医からレントゲン写真を見ながら説明を聞いた。
写し出された弟の脳には「がん細胞」が、まるで銀河系の星雲のように白く広がっていた。
手術をしなければ余命、3ヶ月。
手術をしても1年と言われた。
義妹は、声を出して泣いた。
でも、義妹の泣いた姿を見たのはその1回だけだった。
その後、どんなに辛いことがあっても泣きごとを言わず、弟の看病をしてくれた。

1回目の手術では腫瘍を取りきれず、2回目の手術を勧められた。
しかし本人と十分に話し合い、手術をしないことに決めた。
そして、残された時間を自宅で家族と過ごすことを選んだ。
その時、義妹は僕に言った。
「私がこの人を守っていく」と。

退院後、車イスでの移動がしやすいよう自宅の床を板張りにし、風呂場も少し広くした。
さらに、生活に必要な全てのものを1階に集めた。
義妹と子供たちは弟のベットの回りで食事をし、TVを観て、おしゃべりをして、眠った。
その賑やかなことといったらなかった。
どこに、病人がいるのかと思えるほど、部屋は明るい笑い声で溢れていた。

ある日、弟は僕に筆談で話しかけてきた。
「あんちゃん、家族で食べる食事が一番おいしいんだ、こうして皆と過ごせる時間が一番幸せだよ」と。
「俺、病気になったけど、こんな当たり前のことがうれしいと思えるきっかけを作ってくれた病気に感謝しているよ」「あんちゃん、いろいろ、ありがとう」って、照れくさそうに笑った。
それから3年、どこへ行くのも家族と一緒に過ごした。
2度3度と手術をしなければ、余命1年と言われたのに3年も生きてくれた。

享年46歳。
失うものを見つめ、悔しいと思い、逃げることの出来ない恐怖と向き合ったからこそ、その果てにある豊かさと喜びを見つけることができたのだろう。

しあわせ、ってなんだろう。
いまも時々、あの少し照れくさそうな弟の笑顔を思い出す。

2007年09月27日

第255号『「もう」か「まだ」か』

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【南房総市ロードレース千倉】

先週末、第37回南房総市ロードレース千倉に出た。
昨年はハーフを走ったが、今回は10キロのレースにした。
今春、ひざの故障がたたり練習不足だったが、最近なんとか練習も再開でき、久々のレースだった。

海風は少し強かったが、晴天、気温もほぼ良好。
気持ちよく走れる条件は整っていた。

10時20分スタート。
しかし、走れども走れども、なかなか調子が上がらない。
いや、むしろ苦しく感じた。
5キロの標識を見た時に、そのレースの状態が良くわかる。
「もう、残り半分か」と思うか、「まだ、半分もあるのか」と思うか。
「もう、残り半分か」と思うときは体も軽く、楽に走れている時だ。
反対に、「まだ、半分もあるのか」と思うときは、足どりも重く、なかなか前に進まない。
そんな時、僕は呪文を唱えるように声を出すことにしている。
その呪文は「ありがとう」である。

沿道では地元の方々が応援してくれている。
もちろん、レース進行のボランテイアの方も朝からずっと、レースコースに立ち交通整理や安全確保をしてくれている。
町の多くの方々の協力があって、このレースが運営されている。
そして、こうした方々のおかげで、今日、僕はレースに
参加でき、楽しめているのだ。
だから、感謝の気持ちを込めて、「ありがとう」と手を振る。
すると、必ず「頑張って」と応援の声が返ってくる。
みんなが僕を応援してくれている。
それがたとえ、錯覚だとしても、この声の掛け合いをしていると、なんとも不思議な力が湧いてくる。

まず、自らをさらけ出し、自分の声でメッセージを発信する。
何も提示せずに、誰も、応援してくれないと嘆いても、応援してくれるはずもない。

気がつけば、もう、残り3キロ。
足取りも軽くなり、体が自然に前へ前へと進むようになっていた。

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