安原真広のわるくない記述

2016年07月01日第15回 カルチャーから学べること

今日から7月ということで、2016年も後半戦。小学生くらいの時分は、大人たちの言う「季節が過ぎ去る早さ」というものがまったくわからなかったものですが、20代も終盤になるとあの言葉の真意が痛いほどわかるようになりますね。

さて、参院選と都知事選が近づいて、テレビや新聞、ラジオにSNS、ウェブメディアも政治の季節といった様相。ネット環境が生活に浸透しきり、一般人でも積極的に意見発信ができ、デモをはじめとした実行動によって自らの政治的立ち位置を示す、なんてこともポピュラーになってきたような。そんなこんなで、政治に関心を持とうという機運が、老若男女右翼左翼問わず活発になっているようですね。

ただ、昨今のこの空気感でちょっと気になるのは、「政治」という言葉がSNSのハッシュタグのように一人歩きを始めていることです。政治が「ジャンル」や「クラスタ」になってしまっているのではないかと。

人文学の世界では標準的に理解されていることだと思いますが、わたしたちの身の回りにあるもので「非政治的」なものは皆無です。傍らの鉛筆一つとっても、その原料である鉛や木材からは、それを流通する市場を形成したヨーロッパ帝国主義以来の歴史を遡ることになるでしょう。鉛筆の一般家庭への普及を辿れば、近代国家が戦略的に構築した学校教育制度という歴史を辿ることになるでしょう。今を生きるということは、あらゆる歴史の引き継ぎであり、それはつまり、政治の様々な結果である事物と生きるということです。その意味で、政治的ではないものなどないのです。

しかし政治に「」をつけて「政治」にしてしまうと、まるでそれは他と連関しない、特別に語られるものであるかのように、本来の姿を歪めてしまう。街頭演説のように、権力と反権力、人と金、言葉と行動、そのような二項対立を口にすれば、端的にはわかりやすく政治っぽい。しかし、それは「」つきの政治に過ぎません。「政治」とうリングの中で行われるショーでの、正義と悪役みたいなものです。そこで立場を表明し、そのショーに自分が参加しているという感覚を得ることは、確かに政治参加している気分になりますが、普段の生活の中にある政治からは離れた場所で行われていることのように僕は思います。

文学、映画、演劇、音楽などのカルチャーは、特に近年、娯楽であり、暇を潰すものであり、逃避場所であるという立場に貶められています。人文系学部に対する「なんの役に立つのか」という攻撃が、その象徴でしょう。しかしながら、カルチャーほど人々の扇動性を持つものはないし、抑止力になるものもない。歴史を振り返れば、カルチャーこそが、政治の中枢であったことがわかるはずです。

「若者が政治に関心を持つ」というのは、声を大にして政治的主張を叫ぶことだけではないです。例えば自分の好きな映画を、丁寧にひとつひとつ、キャストの服装や食べ物や仕草、舞台となる町並みやセリフの端々にわたって、真摯に味わい言葉にしていくことの方が、今ここにある時代を誰よりも的確に捉えることになるかもしれませんね。

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執筆者

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安原 真広

ファッション誌編集者

1987年神奈川県横浜市出身、日本大学藝術学部卒業、一橋大学大学院言語社会研究科修了。文章を読んだり書いたりするのが幼い頃から好きで、続けるうちになんだかんだ書く仕事に。ファンサイトでは12年の春頃より業務委託・社員としてライターや編集、営業と様々な仕事を経験。15年10月より現職。

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